01 社畜は異世界へと行く
夜遅くまで毎日仕事に追われる日々。
終電に乗り駅から出ると、コンビニでいつものようにおにぎりを買う。家でゆっくりと食べることもなく、帰宅途中で済ませるだけの簡単な食事。
家に帰ればシャワーで済ませてすぐにベッドに潜り込む。
溜まりに溜まった仕事のせいで休日もない。たまにある休みも疲れを取るために、ただ寝るだけ。そのために借りたような、古いアパートの一室があるだけだった。
それが俺の全てだった。
その生活がつらいかといえば、実際はそうでもない。
これまで経験してきた生活から比べれば、会社から頼られるだけで十分だった。この職場を紹介してくれた親父さんの顔に、泥を塗るわけにもいかない。
だからそんな生活にさえ満足していた。
今更何かになりたいと思えるほど、そんな強い願望を持ち合わせてはいなかった。
それなのに……
* * *
いつの間にか眠っていた俺は、普段ならやかましい目覚まし時計のアラーム音で起きるはずだった。だが、その音を聞かないまま目が覚めた。慌てて辺りを見渡す。
薄暗い様子からして……まだ朝になっていない?
「なんなんだ?」
自分の声が、妙に掠れて聞こえた。寝起きのせいだろうか。
手から伝わるのは硬い床の感触。今が夜だとしても、街灯の光がカーテンの隙間から差し込まないはずがない。なんとなくだが、ここが自分の部屋でないことは理解できた。
少し混乱しているのか、意識はぼやけているように感じられた。頭を何度も振って自分の身に何があったのかを思い出そうにも、会社から出てからの記憶はまるで靄がかかったかのように思い出せない。
ここはどこだ、一体何が起こった?
体を支える手からはザラザラとした感触が伝わり、木ではなくコンクリートに思える。
「寒い……」
季節は初夏だと言うのに、この部屋の空気は冷たい。そして、この鼻につく臭いはまるで公衆便所のようにも感じる。
何度か目をこすり、目を細める。
遠くにある光は弱く、ここから見えるものは何もかもが薄暗い。少し離れた所には太い何かの模様……それも縦に何本かあるというだけ。
「ここは一体?」
床や壁をペタペタと手の感触で確かめながら、膝をついたままゆっくりと模様の所へ進んでいく。
なぜ俺がこんなことに巻き込まれたのかわからないが、少しでも状況を確認する必要がある。
何かの事件に、巻き込まれた可能性もなくはないな。
「それにしても、まさか……な」
縦に見える模様へ近づいていくと、俺には一つの可能性が浮かんでいた。しかし、それはあまりにもありえないことだった。そんな非現実的なことがあるはずもないと、考えないようにしていた。
見えていた模様に手を伸ばす。触れた感触は床のようにザラザラとしているが、所々ささくれのようなものを感じる。
はっきりと見えているわけでもないが、太い木が縦に組まれ……ありえないと思っていたものが、現実になっている。
その木のある方を右手側にして、前に進む。
それほど広くもなく、すぐに壁に手が触れる。ため息を漏らし、同じようにして一周するのに時間はかからなかった。
壁にもたれ、見えない天井を見上げる。
ありえないと思っていたが……状況がその事実を教えてくれる。
この場所が、牢屋だということを。
今起こっていることは、誘拐事件。そう考えるのが自然だが、しかしだ。俺を誘拐するメリットはどこにもない。俺の実家が大富豪ならともかく、普通のサラリーマン家庭で、しかも昔に家を飛び出している。
結論としては、単純な人違いによる誘拐だろう。そんな手違いに巻き込まれておきながら、俺の頭の中にあったのは、明日の業務に差し支えることへの心配だった。
「今は繁忙期で忙しい時期に……なんで牢屋なんかに」
頭をよぎったのは、鉄でできた檻。
しかし、ここが牢屋だとしても明らかにおかしい……立ち上がって上の方を確かめても、檻のどれを触っても、材質はやっぱり木だった。
牢屋であるのなら、こういった物は普通、金属で作られているんじゃないのか?
そもそも、閉じ込めるだけなら鍵の付いた部屋で十分だ。廃ビルなんて探せばそれなりにある。それに……手足が縛られてもいないし、枷もないこの状態はどういうことなんだ?
檻があるから、縛る必要もないってことか?
「だからって、こんな物をわざわざ用意するものなのか?」
明かりの少ないこの場所では、奥の壁は真っ暗だ。
天井を再び見上げるが、この程度の明かりでは上部が見えづらい。それだけの高さがあるのか、単純に光の加減なのかはわからない。とはいえ、俺の身長は百八十近くはある。
それなのに……不思議と高く思えるのはどういうことなんだ?
「無駄にでかい檻だな。俺を閉じ込めるのに、ここまででかいのは必要ないだろ……」
さっき四方を調べたが、この場所にいるのは俺だけ。
他の誰かがいてくれれば、それなりにこの状況にも理解ができるかもしれないのに。
間違って人さらいをするにしても、こんなおっさんを捕まえてどうするつもりだったんだ?
そのくせ、俺が身に着けていた物は全て剥ぎ取られている。
靴もなく裸足になっているし、着せられているのは布切れ同然の服で、太ももに切れ端が当たってこそばゆい。
何も持たせないのは理解できるけど……こんなものに着せ替えるとか、何を考えているんだ?
それにしても……この状況に置かれる前、俺は何をしていた?
自宅に帰ってはいないよな。いつものコンビニに寄ってもいない。
それに、会社でやっていた仕事の内容も覚えている。
昨日と同じく、終電に間に合う時間まで残業をしていた。だけど、退社して……それからよく覚えていない。何かの薬を使われて、その時の記憶が飛んでいるのかもしれない。
結局、わからないことだらけだ……顔に手をやると、その手に違和感があった。
「なんだコレ……俺の手なのか?」
掠れていると思っていた声も、寝起きのせいなどではなかった。いつもの俺の声とはまるで違う、高く細い声。
腕を掴むと、伝わる感覚は細い。背中にある違和感の正体は、腰まで届くほどの長い髪。
周りの状況よりも、腕や太ももの大きさがまるで違う事に早く気がつくべきだった。
俺の体はどうなってしまったんだ?
スーツを脱がされ、こんなボロ布を着せられているのも意味がわからないが、それ以上に、髪がこんなにも伸びているのが理解できない。
「どうなっているんだ? まったくもって意味がわからない! これは……」
「何やら騒がしいのぅ」
一人でわたわたと騒いでいると、声が聞こえた。振り向くと、檻の外には見るからに高齢の男が、ランタンを片手に俺の方を見ていた。
目線は俺よりもだいぶ高い。おいおい、何だその格好は……いったい、なんの仮装だ?
見た目からして日本人ではなさそうだけど、なんというか、それはローブで合っているのか?
あまり見ない格好だ。
「誰だあんたは?」
「随分と威勢がいいな。此処は奴隷商人の館。そして、お前は此処の商品じゃよ」
それにしても、見た目とは裏腹に流暢な日本語だな。だけど、『奴隷』という単語を使い、俺のことを商品だと言い切っている。
人身売買がこの地球上で行われている事実はなく、多くの国が奴隷を認めていない。
「奴隷だと? ふざけたことを言うな。そんなことはどこの国でも認められていないぞ」
「おかしな事を言う子供だな」
子供? 俺を子供だと言った?
爺さんは、持っているランタンを俺に近づける。揺らめく火の光に照らされた自分の体を見て俺は言葉を失う。
体に違和感があると思っていた。爺さんが大きいのではなく、単純に俺が小さい。子供と呼ばれた意味も、それで理解できた。
明かりに照らされて見えたのは、まるで別の人間に成り代わってしまった俺の体だった。そのもっとも分かりやすい変化が、腰まで届く長い髪だった。
ランタンの光は弱い。それでも、指に絡めた一房を光にかざすと、はっきりとわかった。黒ではない。
日本人にとって当たり前の黒い髪が、赤い髪に変わっていた。
体の状態からしてもまったくの別人となった俺は……奴隷で、しかも商品だって?
その事実はありえないし認めたくもない。
奴隷なんてものは、自分の時間というものはなく、今までの仕事よりも過酷なのでは……いやいや、待て待て、ちょっと待て。
よく分からない状況に流されていたが、地球では奴隷なんて制度は認められていない。だけど、俺の体は子供なわけで……
現代世界にそぐわないものが、もう一つある。それは、爺さんが持っている明かりが懐中電灯ではなく、ランタンであることだ。
ここはもしかして……そんなこと起こるはずないだろう? きっと、夢か何かに違いない。
どう考えてもおかしいことだらけだが、夢であればありえないことでも起こりうる。
だったら、言いたいことを言ってやる!!




