お嬢様として異世界で暮らすことに!?
私の朝は、だいたい些細な戦いから始まる。
「お嬢様、おはようございます。朝でございます」
カーテンが開けられ、差し込む光に目を細める。
ベッドの脇に立っていたのは、ルビーだった。
私と同じ赤い髪をきっちりとまとめ、一分の隙もないメイド服。毎朝、私を起こしに来るのはルビーの役目だ。
「……おはよう、ルビー」
この寝室には、ルキアが施した魔法石の結界がある。
入れるのは私と、ルビーとクロ、そしてルキアだけ。賊が侵入した時に逃げ込むための部屋……らしいのだけど、私にとっては別の意味で、屋敷で一番安全な場所になっている。
問題は、この扉の向こうだ。
顔を洗い、寝間着のまま、扉をほんの少しだけ開けてみる。
「お嬢様、本日はこちらのドレスなどいかがでしょう!」
「いいえ、こちらの淡い色の方が絶対にお似合いです!」
「リボンは三つ! いえ、四つで!」
扉の前には、メイドたちがずらりと並んでいた。
それぞれの腕には、色とりどりのひらひらとした服が抱えられている。どれもこれも、フリルとリボンがこれでもかと付いた代物だ。
私は無言で扉を閉めた。
「……今日は、ここで仕事をするわ」
結界の中にいる限り、メイドたちは入ってこられない。
賊のために作られた部屋だけど、今の私にとって一番の脅威は、扉の向こうにいる。
「普段着でいいって、昨日も言ったわよね!」
「昨日と同じお召し物なんて、ありえません!」
扉越しに、即答が返ってきた。
この屋敷で、服に関して私の意見が通ったことは、数えるほどしかない。
ため息をついた瞬間、体がふわりと浮いた。
「朝から籠城なさるのは、淑女として感心いたしません」
後ろから私を抱え上げたのは、ルビーだった。
表情は穏やかなのに、私を抱える腕はびくともしない。
そうだった。この部屋に入れるということは、ルビーも中にいるということなのだ。
「淑女じゃないもの」
「では、お嬢様はいったい何なのでしょう?」
何なのかと聞かれたら、答えは決まっている。
建石育実、三十四歳。
毎日終電まで働いて、コンビニのおにぎりをかじりながら帰る、どこにでもいるおっさんだった。
それが今は、腰まで届く赤い髪に、どう見ても子供にしか見えない少女の体。
名前は、イクミ・グセナーレ。この屋敷の主であり……奴隷商人である。
口にしたところで、誰も信じてはくれないのだけど。
「……お嬢様です」
「よろしい」
ルビーは満足そうに頷くと、片手で扉を開け、私をメイドたちの前にそっと下ろした。
逃げ道は、もうどこにもない。
結局、着せられたのは淡い水色のドレスだった。
リボンは二つで勘弁してもらった。これでも、交渉の末に勝ち取った成果である。
執務室へ向かう廊下では、すれ違う皆が足を止めて頭を下げていく。
「お嬢様、おはようございます! 今日もお可愛らしいです!」
「お嬢様、昨日の報告書は机の上に置いておきました」
「お嬢様、夜更かしは駄目ですよ。ルビー様から聞きましたからね」
この屋敷にいる皆のほとんどは、私の奴隷だ。
その左手には奴隷紋が刻まれていて、主である私が命じれば、誰も逆らうことはできない……はずなのだけど。
実際には、私の方が毎日叱られている気がする。
「イクミ様。本日の護衛は、私とルキアが務めます」
いつの間にか、隣を歩いていたのは狼の獣人のクロだった。気配もなく現れるのは、いつものことだ。
テラスに出て見上げると、屋根の上ではエルフのルキアが腕を組んで立っている。
「ルキア、たまには下りてきたら?」
「愚問です」
……答えになっていないのも、いつものことだ。
執務室の椅子に座ると、机の上には書類の山が二つ。
私がすっぽりと隠れてしまうほどの高さだ。たまにだけど、これが増える日もある。
「お嬢様。本日は午後から、お出かけのご予定がございます」
「分かっているわ。でも、その前にこれを片付けないと」
「では、こちらを」
ルビーが差し出したのは、温かい紅茶と……一本の縄だった。
「……何、それ」
「本日も街へお出かけになりますので。手を繋ぐのがお嫌でしたら、こちらをご用意いたしました」
「迷子になんてならないわよ! ……善処はするから」
「前回も、前々回も、そうおっしゃいました。善処とは、よいお言葉ですね」
返す言葉がない。
前回は露店の焼き菓子につられ、前々回は大道芸につられた。どちらも、気がついた時には一人だった。
「……手でいいです」
「かしこまりました」
ルビーはにっこりと笑って、縄をしまった。
しまっただけで、捨ててはいない。
ため息をついて、一枚目の書類を手に取る。
畑の収穫量、冒険部隊からの討伐報告、新しく屋敷に来た子たちの様子……
どれもこれも、あの日の私には想像もできなかったものばかりだ。
ふと、ペンを持つ自分の小さな手が目に入る。
牢屋の中で、この手を初めて見た時は、悪い夢だと思った。
夢なら覚めてくれと、何度も頬を叩いた。
今では、この手で書類にサインをして、皆の頭を撫でて……時々、撫でられて。
そんな毎日を、悪くないと思っている自分がいる。
「お嬢様? どうかなさいましたか?」
「ううん、何でもない」
こうなったのも、全部あの爺さんのせいだ。
……いや、爺さんのおかげ、と言うべきなのかもしれない。
始まりは、あの日の夜。
いつものように終電に揺られて、家に帰るはずだった、あの日の夜だった。




