第1話:魔王城前、午前九時の退職代行
はじめまして、小説家になれないです。全6話・毎日19時更新で完結まで投稿します。よろしくお願いします。
「初めまして。私、『退職代行サービス・リスタート』の担当者でございます」
魔王城の門の前。二年かけてようやく辿り着いたその場所で、勇者に名刺を差し出したのは、背広に銀縁眼鏡の男だった。
「本日午前九時をもちまして、僧侶様より正式に退職の意思表示を受任いたしました」
隣にいるはずの僧侶の姿は、どこにもなかった。
―― 魔王城到着の、三日前。
魔境の昼は、夜よりも残酷だった。
少なくとも、夜は闇が視界を塞ぐ。何が来るか分からない恐怖はあっても、目の前の惨状を直視せずに済む。
だが昼は、すべてが見えた。
崩れた地形。腐食した植物。空を覆う濁った雲。そして、どこまでも続く、生命の気配がない荒野。
その荒野を、一行は無言で進んでいた。
「っ……!」
先頭を行くジークフリートの足が、突然止まった。地面から、黒い霧が噴き出した。
次の瞬間、霧の中から巨大な影が躍り出た。体長は馬の三倍はある。六本の脚、鱗に覆われた胴体、目の代わりに赤く光る無数の肉塊。魔境に特有の、理性を持たない純粋な殺意の塊だ。
「散れ!」
ジークフリートの叫びと同時に、一行は散開した。
聖剣が光を帯びる。モルガンの詠唱が始まる。
戦闘は、最初から劣勢だった。
魔境の深部に近づくにつれ、魔獣の質が変わっていた。力だけでなく、知性に近いものが芽生えている。罠を張り、囮を使い、弱点を突いてくる。
「防壁展開……っ!」
モルガンが障壁魔法を張った瞬間、魔獣の爪が障壁に直撃した。
ガン、という鈍い衝撃音。障壁が軋み、ひびが入る。
「くっ……!」
モルガンの体が、衝撃で吹き飛んだ。岩壁に背中を打ちつけ、膝をつく。唇の端に血が滲んでいる。
「モルガン!」
テオドールが駆け寄る。回復魔法を行使しようとして、その手が止まった。
モルガンが、首を振った。
「……私より、前を見ろ。魔獣がまだいる」
その声は、いつもの淡々とした響きだった。だが、息が乱れていた。
「でも——」
「行け、テオドール」
テオドールは一瞬躊躇い、しかし踵を返してジークフリートの援護へ向かった。
その瞬間だった。
側面から、別の魔獣が現れた。
「テオドール、右!」
ジークフリートの声より早く、テオドールは体を投げ出していた。
魔獣の爪が、テオドールの肩を掠めた。法衣が裂け、赤い筋が走る。
「テオドール!」
「……かすり傷です。続けてください」
テオドールは立ち上がり、傷口を左手で押さえながら、右手で杖を握り直した。その顔が、蒼白だった。
魔力が足りない。ジークフリートには、それが分かった。
この数日間、テオドールは毎夜、ポーションの調合で睡眠を削っていた。回復魔法の行使回数も、この一週間で限界に近づいているはずだ。
だが、今は止まれない。
戦闘は二時間続いた。
最終的に、魔獣を仕留めたのはジークフリートの一撃だった。
黒い霧が晴れ、荒野に静寂が戻った。
ジークフリートは息を整えながら、仲間の状態を確認した。
モルガンは岩壁に手をついて立ち上がっていた。背中を打った時の痛みを、表情に出すまいとしているのが分かった。
そして、テオドールは、少し離れた場所で、岩に手をついて膝をついていた。肩の傷から血が滲んでいる。それを自分で塞ごうとしているのか、震える手で傷口に触れていた。
「テオドール、傷は」
「……自分で、できます」
その声が、かすれていた。
ジークフリートは、近づこうとして、足が止まった。
テオドールの手が、震えている。
魔力が枯渇しているのではない。体力が限界なのだ。それでも、仲間に心配をかけまいと、自分の傷を自分で処置しようとしている。
(……止めるべきだ。休ませるべきだ)
だが、ジークフリートの口から出たのは、別の言葉だった。
「……助かった。ありがとう」
テオドールは答えなかった。ただ、小さく頷いた。
その横顔に、ジークフリートは何かを言いかけて、止めた。
今は先を急がなければならない。魔王城まで、あと三日。
立ち止まっている時間はない。
ジークフリートは前を向いた。
テオドールが立ち上がる気配がした。振り返らなかった。
その夜。
見張りの当番ではなかったジークフリートは、疲弊した体を横たえ、目を閉じた。
眠れなかった。
体は限界なのに、頭だけが冴えている。魔王城まであと三日。この先に何が待っているのか。仲間の消耗をどう補うか。路銀はもう底をついている。
考えても答えは出ない。それでも、思考だけが空回りし続ける。あきらめて目を開けた時、焚き火の傍らに人影があった。
テオドールだった。
膝を折り、焚き火の前に座り込み、黙々と薬草を刻んでいた。その手元には、小さな鍋と、乾燥させた植物が並んでいる。ポーションの材料だ。
時刻は深夜を過ぎている。
今夜の見張りはモルガンの番だ。テオドールには関係ない。
それでも、彼女は起きていた。
(……ギルドに売るためか)
路銀が尽きかけているのを、テオドールも知っている。だから、こうして深夜に素材を調合して、立ち寄った街のギルドに売る。その金で、パーティの食料を賄う。
ジークフリートには、それが分かっていた。分かっていて、何もしていなかった。
(声を、かけるべきか)
躊躇った。
何と言えばいいのか、分からなかった。「休め」と言っても、路銀の問題は解決しない。「俺がやる」と言っても、調合の技術がない。
かける言葉が、見つからなかった。
ジークフリートは、再び目を閉じた。
焚き火が、ぱちりと音を立てた。
薬草を刻む音が、静かに続いていた。
ジークフリートはいつの間にか眠っていた。
翌朝、テオドールは誰よりも早く起きて、朝食の準備をしていた。
その目の下のクマが、昨日よりも濃くなっていた。
ジークフリートは、それを見た。
見て、何も言わなかった。
今日も前を向いて、進まなければならなかったから。
魔境の空は、濁った血の色をしていた。
切り立った断崖の先にそびえ立つ魔王城。
そ
の第一印象は、「城」というより「壁」だった。
縦に高くそびえるのではなく、断崖に沿って横へ横へと果てしなく伸びる、巨大な石造りの要塞。まるで魔境そのものを背後に封じ込めるかのように、息苦しいほどの質量で大地に根を張っていた。城というものが持つはずの華やかさや威圧感はなく、ただひたすらに、頑強で、無骨で、無愛想だった。
近づくにつれ、その外壁の異様さが目に入ってくる。
無数の爪痕。
それも、人間の武器が刻んだものではない。外側から――魔境の方角から叩きつけられた、巨大な何かの爪が残した、深く、生々しい裂け目だ。石材が抉れ、一部は崩落し、黒ずんだ染みが壁面を幾筋も伝っていた。雨に流されても落ちきらない、古い血の痕だ。
それだけではない。新しい傷もあった。まだ石の断面が白く、乾ききっていない。
(……最近も、何かと戦っている)
勇者はその事実を、どこか遠い出来事のように脳の隅に押し込んだ。今はそれどころではない。
巨大な門を前に、勇者は聖剣の柄を握りしめ、静かに瞳を閉じた。
背後に広がるのは、今しがた命からがら踏破してきた「魔境」だ。
王国の国境を越えた瞬間、世界からは色彩と慈悲が消え失せた。そこは、汚染された、異形の生命体が蠢く死の地。知性なき殺意の塊である魔獣たちが、闇に光る無数の眼球で獲物を狙い、一歩進むごとに牙と
爪が一行を襲った。
「……ハァ、ハァ……。やっと、着いたわね……」
背後で、魔術師の少女モルガンが杖を支えに崩れ落ちる。彼女の法衣は魔獣の爪で裂け、魔力も底を突く寸前だ。
魔境と魔王城は隣接している。しかし、その「隣」に辿り着くためには、数日間一睡も許されぬ連戦を勝ち抜かなければならなかった。追いすがる魔獣の咆哮が、風に乗って聞こえてくる。
まさに、ギリギリの踏破だった。
ポーションは尽き、精神は摩耗し、一行は満身創痍。それでも、目の前の巨大な門の先には、すべての元凶が待っている。
勇者は、まぶたの裏でこれまでの旅を反芻した。
(……ようやく、ここまで来た)
脳裏をよぎるのは、二年前の収穫祭の夜だ。
故郷の村を襲った魔獣の群れ。必死に育てた黄金色の小麦は、王都への徴収で残り少なくなっていた備蓄ごと、魔獣に踏みにじられ灰となった。彼は無我夢中で鍬を剣に持ち替え、たった一人で魔獣の群れを退けた。
その実力を見込まれ、彼は王都へと召喚された。
王都の謁見の間は、眩いばかりの金銀で飾られていた。王の周囲には、一兵卒に至るまで重装備の護衛が隙間なく並んでいた。
『勇者よ、期待しているぞ』
その場で「お前たちのリーダーだ」と引き合わされた僧侶、魔法使い、とその日初めて顔を合わせ、互いの名前すら知らぬまま、「勇者パーティ」となった。王都から程遠い魔王城へと旅立った。
二年間の旅の中で、勇者は何度も仲間に救われた。
特に、僧侶のテオドールには。
今思えば、その目の下には、いつも濃い隈があった。
食事の席で、彼女だけ箸の進みが遅かった。
夜営の焚き火が消えかけると、誰よりも早く目を覚ますのはいつも彼女だった。
だが、勇者はそれを「使命感の強さ」だと思っていた。聖職者だから、当然の姿だと。
「……行こう。皆、準備はいいか」
勇者は、背後に控える仲間に声をかけた。
だが、返ってきたのは静寂だった。
魔法使いは気まずそうに視線を逸らしている。
そして、あるべき場所に、僧侶の姿はなかった。
代わりにそこに立っていたのは、見慣れぬ黒い衣服――いわゆる「背広」に身を包み、銀縁の眼鏡をかけた、あまりに場違いな男だった。
「……誰だ、あんた。僧侶はどうした」
勇者の問いに、男は無表情に名刺を差し出した。
「初めまして。私、『退職代行サービス・リスタート』の担当者でございます。本日午前九時をもちまして、僧侶様より正式に退職の意思表示を受任いたしました」
「……は?」
魔王城前、勇者パーティから僧侶退職
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