第49話 魔法使いの正体
扉の前に立ったエリカは、胸の奥で高鳴り続ける鼓動をどうにか落ち着かせようと、ほんのわずかに息を整えてから、ゆっくりと右手を持ち上げた。
指先が扉に触れるその直前、一瞬だけためらいがよぎる。だが、その迷いを振り払うように小さく息を吐くと、彼女は静かに口を開いた。
「失礼します。」
控えめなその声とともに、重厚な扉を押し開けると、軋むような音が静かな空間に溶けるように響き、ゆっくりと内側へと道が開かれていった。
その後ろから、リリアーナ、アルベルト、そしてレオンも続いて室内へと足を踏み入れるが、誰もが言葉を発することなく、ただわずかに表情を引き締めているのが見て取れる。普段なら軽口のひとつでも挟みそうなレオンでさえ、この場の空気を察しているのか、何も言わずに周囲へ視線を巡らせていた。
室内に入った瞬間、外とは明らかに異なる、閉ざされた空気が肌にまとわりつくように感じられる。
それは決して重苦しいというわけではないのに、どこか現実から切り離されたような、不思議な静けさを帯びていた。四人は自然と足音を忍ばせるようにしながら、無言のまま奥へと進んでいく。
やがて視界が開けた先――暖炉の柔らかな火が揺らめく部屋の中央で、一人の女性が椅子に腰掛け、静かに本を読んでいた。
炎の明かりがその横顔を淡く照らし、ページをめくる指先の動きまでが妙に鮮明に目に映る。
その姿は、これまで何度か訪れた魔法使いとは異なっており、エリカはそこに小さな違和感を覚えた。
(帽子、が……)
彼女は常に深く帽子をかぶり、素顔がほとんど見えていなかった。しかし今、目の前にいるその女性は、何の遮りもなく顔をさらしている。
そして次の瞬間、魔法使いがゆっくりと顔を上げた。
「久しぶりね、リリアーナ。」
暖炉の火に溶けるような、穏やかな声音だった。続いて、その視線が迷いなくエリカへと向けられる。
「そして、エリカ。」
その一言と同時にまっすぐ送られた視線が、時間そのものを凍りつかせたかのようだった。
胸が大きく脈打ち、思考が一瞬で白く塗りつぶされる。
「……お母さん?」
気づけば、そう呟いていた。否定しようとしてもできないほど、その声も、表情も、目の前の女性はエリカの記憶にある母親そのものだった。
懐かしさと違和感と恐怖が、同時に押し寄せてくる。
「なんでお母さんが、ここに?」
自分でも整理のつかないまま言葉を重ねるエリカの横で、リリアーナもまたエリカの発する言葉を聞いて息を呑んだまま固まっていた。
その瞳は大きく見開かれ、目の前の存在を信じたいのか疑いたいのか、そのどちらにも揺れているように見える。
アルベルトは一歩引いた位置で腕を組み、状況を冷静に把握しようとするかのように視線を落としていたが、そのわずかに寄せられた眉が、内心の動揺を隠しきれていなかった。
そしてレオンでさえ、普段の余裕を感じさせる笑みを消し、魔法使いとエリカを交互に見ている。
重たい沈黙が、ゆっくりと場を満たしていく。その空気を切り裂くように、魔法使いは静かに本を閉じた。
「まあ、立ったままでは落ち着かないでしょう。」
そう言ってゆるやかに立ち上がると、自然な仕草でソファを指し示す。
「話せばかなり長くなるわ。だから、先に座りなさい。」
その声音は穏やかでありながら、どこか抗えない力を帯びており、問い詰めることも口を挟むことも許さない、絶対的な主導権を握っていることを感じさせた。
まるで「説明するから待っていなさい」と、言葉にせずとも強く告げられているかのようだった。
四人は互いに顔を見合わせることもなく、促されるまま静かに席へと腰を下ろす。
魔法使いは慣れた手つきでティーポットを手に取り、カップへと紅茶を注ぎ始めた。とくとくと流れる音と、カップがソーサーに触れる小さな音が、不思議なほどはっきりと耳に残る。
(本当に、お母さんなの……?)
エリカの思考はそこから動かない。 しかし、その疑問のすぐ隣に、さらに大きな違和感がゆっくりと形を成していく。
リリアーナが、ためらいがちに口を開いた。
「お母様、なのですよね?」
その問いに対して、魔法使いはほんのわずかも迷うことなく頷いた。
「ええ、そうよ。」
あまりにも自然な肯定だった。 だからこそ、その言葉は逃げ場を与えず、現実として突きつけられる。
エリカの呼吸が浅くなる。
(待って、それって)
頭の中で、点と点が無理やり繋がろうとする。
エリカの母親であり、リリアーナの母親でもあるという事実。その意味を考えた瞬間、思考がぴたりと止まった。
(じゃあ、私とリリアーナは)
その先を、言葉にすることができない。言ってしまえば、何か決定的なものが崩れてしまう気がして。
アルベルトもまた同じ結論に至ったのか、わずかに視線を伏せたまま沈黙している。
レオンでさえ何も言わず、ただ興味と警戒の入り混じった目で状況を見守っていた。
疑問は山のように積み重なっているのに、誰一人としてそれを口に出すことができない。
暖炉の火が、ぱちりと乾いた音を立てた。
魔法使いは四人の様子を一瞥すると、紅茶のカップを静かに持ち上げる。そして、わずかに口元を緩めた。
「さて。」
その一言だけで、空気が張り詰める。
「どこから話そうかしらね。」
――すべてが明かされる、始まりだった。




