第46話 影と断片
黒い兵士が生み出した巨大な手の影が、エリカを覆い尽くそうとしたその瞬間だった。
空気を切り裂く鋭い音とともに、その「手」は横一文字に断ち切られる。
闇が裂け、霧のように散る。
その中心に立っていたのは――レオンだった。
振り抜いた剣をそのままに、わずかな隙も見せず黒い兵士を睨み据えている。
「遅れてすみません。」
その声はいつもと変わらず穏やかだったが、その目だけは鋭く研ぎ澄まされていた。
次の瞬間、レオンはエリカの方身体の向きを変えると一歩踏み込み、まだ動きの鈍っているエリカの身体を軽々と抱き上げる。
「っ……!」
突然のことに声も出ないまま、エリカの視界が揺れる。
気づけば、黒い兵士から十分に距離を取った場所へと移動していた。
「ここにいてください。絶対に動かないで。」
そう短く言い残し、レオンは再び戦場へと戻っていく。
だが、状況を理解する余裕など、エリカにはなかった。
(なに、今の)
呼吸が浅い。心臓の音だけがやけに大きく響く。足に力が入らず、その場に立ち尽くすことしかできない。
そのすぐ隣に、風を切るような気配が走った。振り向く間もなく、黒い影を引き裂く音が響く。
アルベルトだった。
リリアーナに絡みついていた影を一刀のもとに断ち切り、そのまま彼女の身体を抱き寄せると、迷いなくエリカのいる場所まで退く。
「大丈夫か。」
「ええ、大丈夫です。」
抱きかかえられたまま、リリアーナは小さく頷く。そしてすぐにエリカへと視線を向けた。
「エリカ、大丈夫? 怪我はない?」
その声に、ようやく現実へ引き戻される。
「は、はい。なんとか……。」
震える声で答えるのが精一杯だった。だが、安堵する暇はない。訓練場の中央では、すでにレオンと黒い兵士が対峙していた。
アルベルトも一歩前へ出る。
「レオン、加勢するぞ。」
「お願いします。少し、試したいこともありますので。」
短い言葉を交わした直後、二人は同時に踏み込んだ。
次の瞬間、激しい金属音が鳴り響く。
レオンの剣は変わらず無駄がなく、影の動きを正確に切り裂いていく。だが、先ほどまでの「ただの影」とは明らかに違っていた。
黒い兵士は、確かな質量を持っている。剣が当たれば反応し、攻撃には意志がある。振るわれる腕は重く鋭く、まるで本物の戦士のようだった。
「……なるほど。」
レオンが低く呟く。その横から、アルベルトが踏み込んだ。
正面からの一撃。重く、速く、迷いのない斬撃。
黒い兵士はそれを受け止めようと腕を振るうが――
「そこだ!」
レオンの声と同時に、アルベルトの刃が軌道を変える。防御のわずかな隙間へと、鋭く滑り込んだ。
斬撃が、黒い鎧の胴を貫く。
次の瞬間、黒い兵士の身体が崩れた。固体だったはずのそれが、再び「影」と戻り、地面に溶けるように広がっていく。
そして――消えた。
完全な静寂が戻る。
「……終わったのか?」
アルベルトは剣を下ろし、すぐさま振り返る。迷いなくリリアーナの元へ駆け寄ると、その肩にそっと手を置いた。
「怪我は?」
「ありません。……アルベルト様、ありがとうございます。」
その言葉に、アルベルトは小さく息を吐く。本当に安堵したように。
「レオン様も、ありがとうございました。」
リリアーナは続けて、静かに頭を下げた。レオンはそれに軽く首を振り、にこやかに答える。
「いえ、間に合ってよかった。」
だが、その表情はすでに次の思考へと移っている。
「……ただ。」
低く、静かに続けた。
「前に見た影より、明らかに強くなっていますね。」
その言葉に、アルベルトも表情を引き締める。
「やはり、同じものなのですか。」
「ええ、おそらく。ただし……。」
レオンは少しだけ間を置いた。
「だれにでも見えるようになり、固体になった。」
その一言が、重く落ちる。エリカは思わず息を呑んだ。
「……前は、私とレオン様にしか見えていなかったんですよね。」
「その通りです。」
レオンは頷く。
「サラ様の結婚式ではあなたと私のみが見えていた。ですが先日の茶会でアルベルト様も、リリアーナ様も認識できるようになった。そしてさらに……。」
視線を、先ほど影が消えた場所へと向ける。
「固体化し、人を襲った。」
空気が張り詰める。
「次に現れたとき、どうなるかは分かりません。」
その言葉は冷静でありながら、確かな危機を孕んでいた。
沈黙が落ちる中。
「……あれ?」
小さく声を上げたのは、エリカだった。ふらつく足で一歩踏み出し、先ほど黒い兵士がいた場所へと近づく。
そこに。
一枚の紙切れが、ひらりと落ちていた。
「これは…ゴミ?」
拾い上げる。手に触れた瞬間、嫌な予感が走る。
そこには――
見覚えのある文字が、書かれていた。
震える手で、ゆっくりと目を通す。そしてエリカの顔から、血の気が引いた。
「うそでしょ。」
それは、かつて自分が書いた、物語のノート。
誰にも見せることのなかった、あの黒歴史の断片だった。




