第二話
「……て……」
声が、聞こえる。
意識が深海の底に落ちたかのように重く、暗闇が辺りを支配した場所で。
「……てよ……!」
まるで全身が殻の中に居るような感覚の中であったが、か細い一筋の光が差してくる様に。
体中に震えるような冷たさが回ったかと思うと、遮断されていた音や映像が意識の中に浸透していった。
寝起きの様に、ぼんやりとした感覚が次第に引き戻されてくる。
「起きてよ……っ!」
次に聞こえた言葉は、カイトの人生で最もクリアに聞こえた、少女の声であった。
ーーーーー
「ここは……?」
鉛の様に重い身体を起こしたカイトは未だに焦点の定まらない視線を動かして辺りを見回す。
見たところは木造の部屋。と言っても所々朽ちており、人間の住処というよりは一時的な拠点の様にも思える簡素な造りである。
部屋の中央では焚火が燃えており、じんわりとした温かさが粗末な毛布の上から伝わってくる。
「良かった……目を覚ましたんだね!」
安堵の声が隣から聞こえたかと思うと、少女の姿が目に入った。
次第に鮮明になってくる記憶が崖に飛び込む前に助けた彼女の姿と一致する。
「俺たちは助かった……んだよな」
痛みや痺れは残るが、身体の感覚はある。骨が折れているかどうかは分からないものの、命に届き得る怪我が無かったのが奇跡と言えるだろう。
今思い返しても危険な賭けだ。「死に戻り」があったにせよ、二度とあのような選択は御免である。
「痛って……!」
少し身じろぎしただけで電撃の様な痛みが走る。
カイトの様子を見て、少女は木箱の中から緑色の薬が入った瓶を取り出して彼の前に差し出した。
「これ飲んで。自然治癒を助ける薬だよ。もう少し寝ていたら楽になると思うから」
両の手を動かせない彼の口元に運ぶと、彼女はそれを一気に流し込む。
えぐみの残る味にカイトは大きくむせるが薬と言われたからには飲み込まねば効果はない。子供の頃に病気で飲んだ粉薬の味を思い出しつつ、何とか胃に入れる。
「うえ……にっがいな……」
「お手製の調合薬なんだ、味は我慢してね。さ、もう少し横になっててよ」
彼女の言葉に誘われるまでもなく、めまいにも似た強い眠気が襲ってくると、カイトは底に落ちていく様に意識を再び手放した。
ほどなくして二回目の起床。
最初の頃に感じた体の痛みや倦怠感は軽くなり、そのまま動いても問題なさそうだと判断出来る程に回復していた。ぼんやりとした意識の中で見た焚火は既に勢いを失っているものの、僅かな熱を残して燻っている。あれから時間はそんなに経っているようには思えなかった。
被せられていた毛布を脇に寄せて立ち上がると、服装がこちらの世界にやってきた時とは異なる事に気付く。
文明の進んだ向こうの物とは違ってお世辞にも肌触りが良い服とは言えないが、通気性は中々である。
ファッションのフの字も無い機能性のみに特化した単純な作りだが嫌いではない。特に危険の多い世界ではどれだけ動きを阻害しないかの方が重要だろう。
(とはいえ……)
元々着てきた服は連れてきた少女によって着替えさせられたのだろうか。
意識が無い状態だったとはいえ、他人、それも女性に着替えさせたというのは後から考えると少々気恥ずかしい。水を含んだ服は身体を冷やすために彼女の判断が間違っていないと分かってはいるが。
そんなことを考えていると、入り口辺りから足音が一つ聞こえてきた。
音の主はカイトが助けた少女その人であり、服装もフードから動きやすそうな衣服へと変わっていた。
彼女が部屋の中に入り、目が合うとどこか安心した様に表情を綻ばせる。
「起きてたんだね。まだどこか痛む所とかあるかな?」
言葉と共に少女は彼の腕や足を確認する様に探る。
突然の事に思わずカイトは彼女を拒絶する様に手を前に出した。
「大丈夫。大丈夫だから」
「そう、それなら良いんだけど……命の恩人に何かあったら嫌だからね」
特に気にするようでも無く彼女がカイトの元から離れると、手元のカバンから固形物を取り出す。
それと共に部屋の棚から陶器のコップを取り出し水桶から汲んだ。
最後に朦朧とした意識の中で飲んだ薬の入った小瓶がカイトの前に並ぶ。
「とりあえず何か胃に物を入れないとね」
「こ、これは……?」
「なにって、パンと水だよ。見た事無いって訳じゃないでしょう」
彼のよく知るそれらとは似ても似つかぬ見た目に、恐らくこの世界に飛ばされて最も大きなギャップを感じた瞬間である。
元々住んでいた現代日本では、少なくとも味に関して平均的なクラスを下回るなどほとんど考えられない事であるからだ。
とはいえ、それでも食べ物は食べ物。鮮明になった意識についてくる空腹感が勝ち、カイトはそれを一口放り込んだ。
(固い……!!)
例えるならば乾パン。だがそれよりも固く、味もお世辞に良いとは言えない。
一気に口内の水分は持っていかれ、思わずコップの中の水を一気に流しこんだ。
「その様子だと保存食はあんまり食べた事無さそうだね。お貴族さまの類か、あるいは……」
カイトの食べる手が一瞬止まる。
少し前まで平和な世界に居た青年であっても分かるくらいに。
「テンセイシャ、って人なのかな?」
凄まじい警戒心と敵意。
思わず後ずさりして身体が硬直してしまう程の威圧感であったが、すぐに彼女から発されるそれらの空気はすぐに霧散した。
「なんてね。あの状況から助けてくれた人に危害を加える程私も恩知らずじゃないよ。キミがテンセイシャであろうがなかろうがこの場では関係ない」
「正直怖かったよ……転生者はこの世界では嫌われているのか?」
それほどの何らかの因縁が無ければ、華奢なこの少女があれほどの敵意を持つ事は考えられない。
カイトの言葉に少女は苦い顔をして頷いた。
「この世界で彼らを好んで迎え入れる人はもう少ないかもね」
一時期は数多くの転生者をこの世界に送ったと、白い世界の彼女は語っていた。
それが直接では無いが、このノストフェールを『廃棄』させるに至った原因の一つであるのか。
「『魔王』の討伐と称して、多くのテンセイシャがこの地に現れたけれど……結局この世界をより滅茶苦茶にしただけだった。神さまからもらったとかいう『加護』の力を振り回して」
彼女の言葉の端々から恨みの様なものが溢れ出している事から、適当な事を言っているのではないとカイトは直感的に分かった。
しかし、それにしても解せない。
幾ら転生者が分不相応な力を手に入れたとしても、皆が皆無法者の様に暴れるものなのだろうか。
そして、神々が言っていた事とも少し食い違う。彼らはみなこの世界の問題を解決する事は出来なかった、という言葉と彼女が語った状況がどうしてもカイトには同じ様には思えなかった。
「まあ、外に出るなら自分の事をテンセイシャと名乗るのはやめた方が良いよ。誰も彼もがきっといい顔をしないし、余計なトラブルが増えるだけ」
「……忠告、どうもありがとう。少しだけこの世界の事が分かった気がする」
結局彼女はカイトの事を見抜いていたが、どうやらそれは水に流す様であった。
出会いは転生直後からインパクトのある一幕であったが、彼女と最初に会えたのは幸運だったのだろう。
「さて、タイミングは遅くなってしまったけれど、いい加減名乗ろうか」
カイトが食事を終えると共に少女は姿勢を正す。
今まではグレーの癖っ毛が目に入っていたが、いざ正面からだと可愛らしい顔に力強さを感じるエメラルドの光を湛えた、ざっくばらんな言動に反して美しいとすら思える姿であった。
「私はミューリ。この辺りで魔学の研究をしているよ」
「俺の名は渡里カイト……ここではカイトって呼んでもらった方が良いかな」
転生者として知られる事が不利益になるのであれば、この世界には無さそうな苗字という存在も隠しておいた方が良い――――そういった判断から、この時を境に名前だけで名乗る事を決意する。
それ以上に、カイトには気になる点があった。
「マガク……って言ったか。それはどういったものなんだ?」
「キミに伝わるかは分からないけれど、黒魔術や錬金術、薬を扱う学問から精霊の生態系まで幅広く扱う、物好きしかやらない学問だね」
自分で物好きと言うのか、という突っ込みは心の中にあったが、それ以上にファンタジーでしか聞いた事の無い言葉の羅列に思わずカイトの興味が強く惹かれた。
向こうの世界ではファンタジーとしか基本的に扱われないそれらの言葉がこちらの世界では歴とした存在感を持つのだ。
「魔術や錬金術がそんなに珍しい?」
ミューリからは目を輝かせている様に見えたのであろう。カイトの表情を見て彼女は呆れる様に笑った。
「そうだな、俺の世界では言葉はあったけど、全部空想上のものとして扱われてたから」
「魔学が空想上の存在、か。私には考えられないけれど、キミの世界はキミの世界で独自の理論がありそうだね」
ミューリが部屋の外に目を向け、カイトがそれを追うと、外には水を大きく吸ったカイトの服がロープに吊るされていた。彼の着ていたジャケットやジーンズはこの世界では未知の技術で作られたものであろう事は想像に難くなかった。
「私の方も肝心な事を聞き忘れていたよ――――キミの加護は何なのかな?」
ノストフェールに現れた転生者たちは皆加護を持ってやってきた。
ならば、同じく転生者であるカイトも持っていて然るべきである。
彼女の幾ばくか期待の籠った眼差しに、申し訳ないという気持ちを顔に浮かべつつ首を横に振った
「……残念ながら俺の加護は君の期待に添えるものじゃないと思うけれど」
「ここに至って隠すの!?警戒心としては大したものだと思うけど、傷つくなあ」
わざとらしい泣き真似と、非難するような口ぶりに晒されてもカイトは頑として譲らない。
何故ならば
「そうじゃなくてさ――――俺の「死に戻り」はこの世界にいる限り全く効果が無いんだよ」
カイトの加護は、神々の想像の遥か上を行く使い方をされていたからである。




