◆第3話:静かなる魔法書庫の管理者、ルゼリアの一日◆
早朝、書庫の扉を静かに開く。
館の中で最も静寂に包まれたその場所は、ルゼリアにとっての聖域である。
静かな紙とインクの匂いが、まだ冷えた空気の中に沈んでいた。
元は高位の魔導士が暮らしていたこの館。戦争で主を失った後、空き家となった。
そのため粒ぞろいの魔法書が数多く残されており、今では彼女がその管理を任されている。
「……解読した魔法書の整理が遅れていましたね。補助魔法、展開」
淡い光を放つ補助魔法で書物を浮かせ、整然と並べ直していく。
規律正しく、確かな手際。それは彼女の本質そのものだった。
作業をひと区切りつけて廊下に出ると、ちょうどセディオスを起こし終えたエクリナと行き合った。
その顔には、静かな満足と、かつて見たことのない柔らかな光が宿っていた。
(……あの方が、ここまで表情を変えるとは)
思い返すのは、かつて世界に反逆するため共に歩んだ日々。
冷徹で、誇り高く、決して我ら以外に心を許さなかった“魔王”。
けれど今の彼女は――
「……失礼、エクリナ。セディオスのお加減は、いかがですか」
「うむ、良好である。じきに食卓へ来るであろう」
「それは何よりです」
短く言葉を交わしながらも、心の内では小さな驚きを覚えていた。
かつて従った主が柔らかに微笑み、誰かと共に歩む姿。
それは“変化”であり、“救われた証”でもある。
(……ふふ、セディオス。まったく恐ろしいお方ですね)
ルゼリアも食堂へ向かい、家族との朝を楽しむ。
いつもの賑やかで、温かい時間。
一心地つくと、再び書庫へ戻る。
椅子に腰を下ろし、机の上の一冊を手に取る。
表紙には『過去と今を刻む』と題された魔法書の名が記されていた。
「過去ですか……」
ルゼリアは、静かに思い出に浸り始める。
◇ ◇ ◇
魔哭神に造られ、嬲られた日々。
戦場に駆り出され、人属軍を焼き払う日々。
それが獄炎の少女、ルゼリアの日常であった――
時折、神の中級兵から『銀髪の魔王』の噂は聞かされていた。
「一瞬で制圧」「戦域の拡大」――その名は、神造生命体の中でも、とりわけ多くの戦果と共に語られていた。
忌み嫌われてはいたが、神は気に入っているとも聞いていた。
(魔王ですか……)
ルゼリアは保管術具で体を再生させられながら思っていた。
(きっと使い捨てなのでしょうね……この、私と同じように……)
少女は、どこか憐れむような気持ちを抱いていたのだった。
再生を終え、再び戦場を灰燼に帰す赤毛の少女。
いつかは分からないが、気づけば青髪の少女ライナと共闘することが多くなっていた。
会話は禁じられており、戦場での行動が全てだった。
時にはライナを襲う人属兵を炎の矢で貫き、時には紫電の一撃がルゼリアを守っていた。
戦いの中で、少しばかりなら言葉を交わすこともできた。
ライナはいつしか『リア姉』と呼ぶようになっていた。
(変わった躯体ですね……)
珍しいと思ったが、悪くない気分だった。
親しげに呼ばれ、ルゼリアは少しずつ感化されていく。
「ライナ右です!」「リア姉! 左から来るよ!」
互いに名を呼び合い、信頼を高めていった。
(……一人じゃないのは悪くないですね)
妹分ができ、内心嬉しいルゼリアだった。
しかし――それも長くは続かなかった。
人属軍は力を増しており、戦場には罠が張り巡らされていた。
その一つにライナが捕まった。
拘束され、徐々に氷漬けになっていく青髪の少女。
「リア姉……」と、小さく呼ぶライナ。
いつもの快活な声を出し、笑顔で呼んでくれる妹とは違っていた。
ただ、そこに居た。
いつの間にかそこに居た。勝手にリア姉と言ってくれた。
そして――居心地が良かった。
命を懸けた戦場で、安堵できる存在になっていた。
「ライナッ!!」
それを見て動揺したルゼリア。
無意識に右手を伸ばす。届かないことなどわかりきっている。
それでも――伸ばさざるを得なかった。
だが――運命はさらに残酷であった。
横合いから、大地・樹木・風――
様々な中級魔法が一斉に放たれ、ルゼリアは吹き飛ばされる。
浮遊していた《焔晶フレア・クリスタリア》が一つ撃ち落とされた。
「このおぉ! どけえぇぇ!!」
怒声が上がり、人属軍を睨むルゼリア。
今すぐにでも妹分の傍に寄りたい。すぐに罠の氷を溶かして助けたい。
意志を殺していた、神の人形は――自ら行動していた。
残った《焔晶フレア・クリスタリア》が『飛晶』形態となり、狙撃を始めるも悪手だった。
背後から剣士たちが切りつけてくる。三人がかりで奇襲してきた。
「な! フレア・レイヴン!」
手を突き出し、炎の鳥を放つ。
一人を焼くも、残る一人がルゼリアの右腕を切り落とし、もう一人が胸を貫いた。
「くうぅぅぅ!」
致命傷を負っていた。血を吐き、自身の腕が地に落ちるのを見送るしかなかった。
けれども、ルゼリアは呻き、魔法名を唱えて撃ち放つ。
「ブレイジング・スラスト!」
左手で炎の槍を作り出し、二人とも貫いていた。
それでも、仲間の死を見た別の剣士が、雄叫びを上げて特攻する。
「灰になりなさい!!」
赤毛の少女は、怒りをあらわにし、業火を見舞う。
見事に直撃し、剣もろとも燃え尽きていた。
致命傷を負い、死力を尽くしたルゼリアは地へ伏した。
目の前では蒼の少女が口まで氷に覆われていた。
さらなる追撃が来ようとしたとき――神兵がやってきた。
次々と倒されていく人属兵。
死闘のただ中で、赤毛の少女は一点を見つめていた。
「がふっ!……ラ、ライナ……」
氷柱に閉じ込められた少女を見ながら、意識が遠のいていった。
気が付くと、拠点の保管術具で再生が始まっていた。
だが、生成液の循環はなく、応急処置のようなものだと分かった。
ひとときしか保存できない状態。
そして、複数の浮遊する神造球体が、紙片をまとめて離れていくのが見えた。
(……なるほど、撤退、あるいは新たな戦域への移動ですか……)
切り落とされた右腕はくっついており、胸の刺突痕はある程度塞がっていた。
(せめてもの情けなのでしょうか……廃棄されてしまいましたが……)
騒音に満ちた空間で、ルゼリアは穏やかな顔をしていた。
役目を果たした神造生命体の末路など、わかりきっていたからだ。
目を瞑り、眠りにつくルゼリア。
覚悟はできていた――もう目覚めることはないであろうと。
しかし――
(もし……もしも、『誰か』に起こされたときには、生涯を懸けて尽くすことにしましょう……)
と、ありもしない希望を抱いていた。
ありもしない、空虚な夢を抱き――深い眠りへと落ちていた。
それから刻が経ち――ルゼリアは起こされた。
傍らにいたのは、銀髪の少女だった。
自らを『魔王』と名乗り、「仲間となれ」と手を差し伸べてきた。
ルゼリアの心は当然決まっていた。
言うべき言葉はたった一つだった。
「仲間として、王の側近として、共に戦わせてください」
ルゼリアという獄炎の少女が、エクリナと運命を共にすると決めた瞬間であった。
◇ ◇ ◇
「にゃあ〜」と侵入した猫が鳴き、ルゼリアの膝の上に飛び乗る。
「ん?……少し物思いに耽り過ぎましたか」
目の前には、未読の魔法書がまだ山のように待ち構えている。
けれど、その胸の内には、不思議な満ち足りた気配が静かに宿っていた。
「エクリナ……幸せそうで、何よりです」
「私も満たされていますよ……あの頃の私には、想像もできなかった未来ですがね」
その静かな言葉は、書架の合間に溶けて消えていった。
赤毛の少女は、膝上のネコを優しく撫でていた。




