◆第3話:滅びの魔王と放浪の旅人◆
すべての始まりは――『魔王』と呼ばれた少女と、一人の旅人の出会いだった。
エクリナが目を閉じると、館の静けさの中で、胸の奥からあの日の記憶が蘇る。
カップの縁に触れると、まだ熱が残っている。
その温度が、あの日の“手の温かさ”を思い出させる。
時折、平穏を甘受している自分が、少しだけ怖くなる。
また、あの時に戻るのではないかと、胸が焦げる。
◇ ◇ ◇
かつて、世界の消滅と引き換えに魔哭神と呼ばれる神を討つ計画が進行していた。
造られ、弄ばれ、神に道具として扱われていた少女――その名をエクリナ。
彼女は友とともに戦場から逃亡し、仲間を集め、魔哭神への復讐を胸に進軍していた。
度重なる戦と強大な神の力。——戦略兵器を造るしか倒す術がないと判断する。
だが、その前にただ一人の旅人が立ちはだかった。
「――貴様がこの世界を壊すというのなら、その前に俺が止めよう」
男の名はセディオス。
黒ずんだ旅装と背負われた魔剣。場違いなほど静かな瞳を持つ、生きる意味を探す放浪者であった。
数日に及ぶ死闘の果て、膝が砕けるように落ちた。
仲間は倒され、自身に剣を向けられ、すべてを失った――終わった。
その瞬間、差し伸べられた手は温かかった。
「……お前はまだ、世界の全てを視たわけではない」
セディオスの言葉に、エクリナの心は堰を切った。
諭すような声、掛けられたこともない言葉。
心中のすべてを吐露する魔王。敗れた姿で無様に慟哭する。
「我らは道具であり、慰みものでしかなかった……世界が我らを切り捨てるなら、いっそ滅ぼすしかないと……!」
エクリナは拳を震わせながら、嗚咽を吐き出す。
そこにあるのは、恐れられた魔王の姿ではなく、ただ泣き叫ぶ少女の声だった。
だが彼は、黙ってその涙を受け止めた。
やがて二人は旅を共にするようになった。
傷を癒した仲間、ティセラ・ルゼリア・ライナとともに魔哭神を直接討つ旅に出る。
小さな言い合いを重ね、互いの影と光を知り、少しずつ心を寄せ合う。
くだらない話をし、時には本気で衝突もした。
野営では、焚き火の匂い、暖かい食事、夜空のきらめきを感じた。
戦場しか知らなかったエクリナは、少しだけ世界を視ることができた。
そして迎えた決戦――魔哭神との最終戦。
エクリナは極大魔法を放ち、セディオスは必殺の一閃を振るう。
全魔力を賭した二人の連撃が、ついに魔哭神を討ち果たした。
代償として、セディオスはその力を深く封じられることになったが、勝利は確かなものとなった。
三人の仲間も無事だった。エクリナは何も失わずに勝利を得た。
戦いの後、エクリナは問いかけた。
「……我は、もう、何のために存在すればよいのだ……」
神への復讐が生きる目的だった魔王は夜空を見上げ嘆く。
隣に男が座り、その迷いに、セディオスはただ一言を返す。
「なら、そばにいてくれないか」
長い沈黙の末、エクリナは涙をひとすじだけ零し、微笑んだ。
「そうだな、それで十分だ。うぬと共に在れるのならば」
だが彼女は妻にはなれないと、人属の指輪の儀式を断った。
その言葉に甘えた瞬間、自分を許せなくなると感じたからであった。
代わりに、ずっとそばにいるための役割を考えた。メイドとして主に仕える道であった。
毎日紅茶を淹れ、食事を作り、掃除をし、洗濯をする日常を護る仕事を行う。
罪の多い身でも、これならばセディオスの傍に居るのを許される気がした。
(世界を滅ぼそうとした自分には、妻の資格はない)
エクリナはメイド服に今日も袖を通す。
新たな生きる目標を得て、主のために紅茶を淹れ続ける。
◇ ◇ ◇
いつものようにテラスで午後を過ごすエクリナ。
主となったセディオスが隣にいる。
「考え事かい」
セディオスが、何でもない声で言う。
「……くだらぬ感傷だ」
エクリナは紅茶を差し出し、湯気の向こうでほんの少しだけ笑った。
罪は消えぬ。だが――今日の午後は、ここにある。
(……欲しかったものは手に入っているではないか)
胸に灯った不安を、湯気にまぎらせる。
魔哭神との決戦から三年余りが経過し、信頼する家族との日々は続いている。
何気ない日常こそが、彼女が護りたかったもの。
かつて“魔王”と呼ばれた影を胸に秘め、今日もエクリナは静かにセディオスの傍に居る。




