◆第310話:未熟者たちの実習◆
ジェンマギ学院――第三訓練場
円形の砂地を中心に、周囲を低い観覧席が囲んでいた。
フォルネアの闘技場を思わせる舞台は、頭上の魔導ランプが昼の光に混じって淡く揺れている。
その中央では、白の魔女と赤の従士が向かい合っていた。
ルゼリアは、自身の弱さと強さ、そしてこれから伸ばすべき道を示され、静かに頭を垂れていた。
満足そうで、少し安心したエーデルは次なる講義に移る。
それは――実習だった。
「そろそろ、身体を動かそうかのぉ。そのための運動着じゃあ」
両肩を回しながら、これからが本番という顔をしていた。
「ええ、承知しました。ですが、私は自己流の近接しか知りませんが……」
あまり知らない分野ということもあり、不安げであった。
「そうじゃのお……わしゃに拳を放て。魔力を込めても構わんのじゃあ」
「わしゃはありのままで受けてやるのじゃ」
そう言いながら、手を後ろに組みルゼリアを正面から見据える。
足先で直径一メートルほどの円を描くと、肩幅ほどに足を開く。
構えない姿はまさに無防備であった。
「……わかりました」
「その円から出させることが、今日の実習終了を告げるようですね」
ルゼリアは悟り、公平を期して、魔法は発動しなかった。
だが――かつてのセディオス同様に体中に魔力を巡らせ、僅かながらに身体強化を実現する。
これはエクリナやライナ、ティセラも同様に行っている戦闘の基本所作であった。
ルゼリアは構える。
基本魔法は射撃と砲撃であったが、近寄った敵を払う程度には動きを知っていた。
指示のままにマスターへ駆ける従士。
拳を突き出す――しかし、首を僅かに傾け、髪先だけを揺らしてかわした。
返す左拳が腹を狙う。
だが、白い少女の爪先は円の内側をなぞるだけで、身体の芯を半歩ずらしていた。
「魔術師としては……嗜み程度じゃな。だが、鋭さが足らんのじゃ」
そう言いながら、腹に標的を変えた一打をのけ反って交わす。
焦れ始めるルゼリア、自身の拳が当てられないことに苛立ちを感じていた。
尚も、顔、腹、脚を狙うが、円内ですべて回避し続ける。
「はあ~」
エーデルはため息をつくと、突き出された右拳を避けると同時に、自身の右拳をルゼリアの腹に見舞う。
「ぐうぅッ! ごほッ!、げほげほ……」
予期せぬ反撃に悶える従士。
実習を止めたマスターは「ふあぁ~~」と、あくびをしていた。
「ルゼリアよ……もっと自身の攻撃に囮を混ぜるのじゃあ」
「もっと謀れと、最初に教えたはずじゃあ。すべて本気は疲れるじゃろう……」
エーデルは真っすぐなルゼリアに、具体的な手段を教えていた。
それは格闘術の基本であり、ルゼリアにとって未知の境地であった。
観覧席の端で、小さな笑いが漏れた。
口元を隠す者、隣と目を合わせる者。
強者の弱みが見えた途端、彼らは安心したように笑った。
だが――それは、ジェンマギ学院の流儀には反する。
エーデルは、愛すべき学徒たちへ冷たい表情を向けた。
目指して欲しいのは高みであり、劣っている者を見下して自身を慰めることではない。
そう告げているようであった。
「笑うなら、せめて同じ場所に立ってから笑うのじゃ」
「興味がある者は下りてくるのじゃ。今日は……特別に力量を見てやるのじゃあ」
エーデルの声は大きくなかった。
だが、その冷たさは観覧席の端まで届いた。
邪な想いがある者は慌ただしく片付ける。
手帳を閉じる音、道具を仕舞う音に交じり鈴音が微かに混じっていた。
彼らはスゴスゴと立ち去って行った。
エーデルはそれを静かに見やっていた。
「興がそがれたのぉ……今日は仕舞いじゃあ」
深いため息をつくと、少しだけ悲しそうに歩んでいった。
「……承知しました」
小さくつぶやくルゼリアはその小さな背を追いかけていった。
サッサと着替えを終え、エーデルは早足で廊下を歩く。
学徒が笑顔で手を振ろうとも、それに応えられないほど不機嫌であった。
その背後に声を掛ける者がひとり、「マスター、マスター!!」と叫んでいた。
誰にも見せたくない顔をしているのだと、ルゼリアには分かっていた。
それでも構わず歩み続けるエーデルは学院の外れの森に着くと――
自身よりも大きな岩石に拳を打ち付ける。
ドンッ! ドンッ!と、鈍い低音が鳴り、鳥たちが飛び去った。
一呼吸をするたびに腰を落とし、渾身の一打を打ち据える。
魔法を使えば砕ける岩を、エーデルは拳だけで殴っていた。
それは十分ほど続いた。
「はあ――はあ――」
息を切らしながら、汗をぬぐうエーデル。
拳は擦り剝け、真っ赤になっていた。
その手にそっとハンカチを当て、ルゼリアは沈黙のままに治療を行っていた。
エーデルは何も言わず、それを受け入れている。
学長としての不甲斐なさを噛みしめていた。
「……すまんのじゃあ。つい苛立っての……わしゃも、まだまだわらべと変わらんのう……」
自嘲するエーデルは悲しげな顔をしていた。
「私が悪いのです。最初から全員に力を見せつけ、恐怖で支配し、子分にでもしておけばよかったですね」
ルゼリアは笑いながら冗談を言う。
エーデルは、「わらべならやりかねんのじゃあ」と言い、笑い返した。
この瞬間は、ただの少女のように笑い合っていた。
満足するまで笑い合った後――
「マスターは、何に憤慨しましたか? 私の未熟さですか? 低俗な学徒ですか?」
「それとも――」
「学院の流儀を踏みにじる学徒を出してしまったことですか?」
ルゼリアは見定めるように疑問を幾つも投げかける。
その中に正解があったらしく、エーデルは唇を噛んだ。
「わしゃの教育不足じゃな。手の掛かるわらべはおれど、ルゼリアのように真っすぐだと思っておったのだがのぉ……現実を見ておらんかった」
「その顛末が、あの嘲笑じゃあ。誰でも初めはある、失敗はする、だがそれを嘲るのは大間違いじゃあ」
「わしゃ、雑じゃからなあ……今日は堪えたのぉ」
エーデルの瞳に、薄く涙が滲んだ。
千八百年を生きた学長は、その瞬間だけ、ひどく幼く見えた。
ルゼリアは、白き少女の頭を撫でてなだめていた。
「わしゃを撫でるとは……わらべ扱いかのぉ?」
その問いに微笑む赤毛の少女。
「我が家では普通です。ここに来る少し前にも王の頭を撫でてなだめてきました」
「良いのです、強者が泣かないなんて教わっていません。マスターはまだ強者のままですよ」
何も間違っていないと肯定するルゼリアは、エーデルの頭を撫で続けた。
静かに涙するエーデルは体を寄り添わせる。今日ばかりは少女に戻りたかったようだ。
初めての特別講義は、途中で幕を閉じた。
ルゼリアも、学徒たちも、そしてエーデルすらも、この実習で誰もが己の未熟を見ていた。
だが、ルゼリアの脳裏にひとつの言葉が残っていた。
――囮を混ぜる。
真っすぐに燃えてきた炎が、初めて揺らぎ方を覚えるための一歩だった。




