◆第25話:湯けむりの休日◆
ゆるやかな山道を登る馬車の中、車輪の軋む音が心地よい揺れとともに響いていた。
目的地は、霧と霊泉に包まれた高地の隠れ湯元――”霊泉郷セイリョウ”。
窓の外には青々とした森が広がり、遠くには湯気の立ち上る宿の影が見える。
「……もうすぐ到着ですね。霊泉郷セイリョウです」
ティセラの喜々とした報告に、ライナが馬車の窓から身を乗り出した。「わぁーっ! 山の上にあるんだねっ、景色めっちゃいいーっ!」
「ふむ……静かで落ち着いた場所だな。我らが疲れた心を癒すには、うってつけである」
エクリナは凛然とした態度ながらも朗らかだった。
今回は、セディオスの提案で行う小旅行。引っ越しの疲れを癒すため、家族全員で温泉宿を訪れることになったのだ。
宿に案内された部屋は、一棟貸しの離れ。今なお、武と礼を重んじる極東の”和都ユヅラン”の意匠を取り入れており、木と石が織り成す静謐な佇まいが、どこか張り詰めた美しさを宿していた。
風情ある建築と庭付きの造りで、内湯・露天風呂も備えている。
「よーーしっ、さっそくお風呂入ろうよーっ!」
ライナがタオルを片手に飛び跳ねると、ルゼリアが眉をひそめながらたしなめた。
「ライナ、荷ほどきと着替えの準備が先です。はしゃぎ過ぎるのはお行儀が悪いですよ」
「いーじゃん、旅行なんだからーっ!」
そんなやりとりに、エクリナが軽く咳払いをする。
「よいか、皆の者。今日は心身の疲れを癒すことを目的とした小休止である。騒ぎを起こしてはならぬぞ」
「「「はーい!」」」
一同の返事が揃い、旅の始まりにふさわしい空気が流れる。
夕暮れ前、家族全員で向かったのは、宿の離れに備え付けられた露天風呂。
宿からは「混浴でも安心」として、特製の湯浴み着が用意されていた。
「へへっ、これなら皆で入れるね!」
ライナは湯浴み着に着替え、嬉しそうに露天風呂へと走っていく。
「……布一枚の差とはいえ――混浴に対する配慮としては、妥当ですね」
ルゼリアは涼しげに肩をすくめ、静かに湯へと足を浸す。
「……我は、肌を晒すのはあまり得意ではないのだが……」
エクリナは少し頬を染めつつ、湯浴み着を整えながら小さく呟いた。
「無理しないでくださいね、エクリナ♪。でも、たまには……こういうのも、いいですよ」
ティセラの微笑みに、エクリナは照れくさそうに頷く。
そこに、タオルを肩にかけたセディオスがやってきた。
「お、みんな揃ってるな。ちゃんと俺も湯浴み着に着替えたからさ、変な目では見ないって約束するよ」
「最初から変な目で見る気満々の人が言いそうな台詞だね、それ」
ライナがからかうようにジト目を向けた。
「……ふむ、セディオスのことだ。礼節はわきまえておるだろう」
エクリナが淡々と告げると、セディオスは「その信頼、全力で守ります」と敬礼のポーズを取った。
湯に身を沈めれば、そこには言葉もいらない癒しの時間が広がっていた。
「……はぁぁ、極楽だぁ~……」
ライナは肩まで湯に沈み、全身で湯のぬくもりを味わっている。
「これほどの湯、久方ぶりであるな……」
エクリナは湯煙の中、どこか恥ずかしそうに目元をタオルで隠していた。
「気持ちいいですね、エクリナ。……こういう時間が、ずっと続けばいいのに」
ルゼリアのささやきに、エクリナは小さく頷いた。
「うむ……我も、そう思うぞ」
「皆、疲れもあったはずだから、気を抜いていこうよ。明日からまた、日常が始まるんだからさ」
セディオスの穏やかな声に、一同の表情が緩んだ。
そう、今だけは――
争いも、責任も、全てを忘れていい。
けれど、その静けさを裂くように、物語は動き始めていた――。
* * *
その静寂の裏で――
異なる意思が、密やかに蠢いていた。
山の麓。朽ちた神殿のような廃墟に、黒衣の影が一人、静かに佇んでいる。
風もなく、空間がまるで止まったかのような沈黙の中、影はつぶやいた。
「……見つけた。あいつらの居所を」
「人間たちの歓楽地――あれは“温泉”という名の場所だったかな?」
どこからか応じる、もう一つの声。
「はい、確認済みです。魔王と剣士、そしてその他数名。かつて”魔哭神様”を討った者たちの生存者と推測されます」
「ふふ……まさか、あの時の因子がここまで残っているとは。いい機会だ……私の“計画”のために、会いに行こうじゃないか」
闇の中、その瞳がかすかに輝く――
それは、未だ燻る怨念と、復讐の焰。
物語は、再びその歯車を回し始める。
静寂は、戦火の前触れにすぎなかった。




