◆序章:這い寄る狂気◆
炎雷の姉妹と魔王の魔力が高まったとき――
ひとりの影が遠くで蠢いた。
世界の中央――かつての戦域、誰も近寄らぬ魔哭神の居城。
玉座は荒れ果て、生の気配がしない城内。
それでも城外ではいまだに神に作られし意思なき兵士が定期的に闊歩する。
神という主を失ったにも関わらず、命令のままに歩き続ける。
魔の森も成長が止まらず、人属と亜人属の介入を今も阻んでいた。
三年の時が流れても、いまだに神領という土地は不気味であった。
その廃墟となった城の屋根の上に、ひとりの影が静かに佇んでいた。
長く伸びた紺色の髪。その後ろ髪は、丁寧に三つ編みにまとめられている。
少年のような、少女のような――年頃も性別も、輪郭の定まらないその存在は、月明かりの中で静かに目を細めた。
「……みつけた」
長い時間、名を呼ぶことすら許されなかった想いが、ようやく言葉になったかのような声だった。
乾ききったその響きは、どこか人ならざる気配を孕んでいる。
「やっと……やっと、みつけました……」
暗闇に点滅する光を見つめ、声が震えていた。
毎日、毎日、たった五時間しか動かない術具を空に浮かべては反応を見届ける日々。
勿論、他にもやることは多い。だが、彼もしくは彼女には最優先すべき事項であり、待望の瞬間でもあった。
「これで……ようやく動くことができる」
これまでの苦労が少しだけ報われたような気がした。
乾いていた声にも、少しだけ可愛らしい弾みが戻っていた。
濃紫の影はひとつ息をつき、空に向けて右手を掲げる。
指先から淡い魔力の波紋が広がり、宙にいくつもの術具の光点が浮かび上がる。
その中のひとつ――煌々と輝く、金色の光を見据え、微笑んだ。
「そんなところにいたんですね……“エクリナ”」
目を細めるその瞳に、狂気と執着、そして微かな哀しみが混じっていた。
夜空には浮遊する球型の目が三つ、遠方を見やっていた。
そのうちの一つが――文様を点滅させ、声の主に近づいていた。
「ふむ……人属領の南方ですか……」
「座標は……大まかにしか分かりませんか……仕方ありません」
パン、パンと手を叩く三つ編みの若者。
その合図に従い、残りの二基も降りてくる。
「魔王の魔力反応があった土地に飛んでください。片田舎です、すぐに見つかるでしょう」
「さあ、行きなさい」
金の眼を見開くと――三基の浮遊する球体は異空間に飲まれ消えていた。
少年とも少女とも言えない者は、顔をほころばせていた。
「実に楽しみですね♪ 逢うのが楽しみです、エクリナ」
「わたくしが神以外で初めて覚えた名前。そして、心を乱された日が懐かしい……」
かの者は居城の屋根で踊るように体を翻していく。
歪な喜びを表すように、真っすぐに空を見つめては、妖艶に嗤う。
「今度は、わたくしが『奪い』に行きます。貴方という存在をね」
その奪うという言葉には、憎しみだけではない、歪んだ愛情のような色も滲んでいた。
風が吹く。
夜が静かに、深く沈み込む。
そして、少年または少女の姿もまた――月影とともに、霧のように消えていった。




