牙を剥く子猫
地下室から地上へ続く階段を、弾むように駆け上がってきたグレゴールは、すれ違う使用人たちが驚き、恐怖の視線を向けるのも気が付かず、血濡れたまま中庭へと足を踏み入れていた。
少し進んだ先の大木の根元に、ロイズの婚約者が座っているのを見つけたご機嫌な彼は、この可哀想な少女を少しだけ構ってやろうと思い近付く。
「やぁ、アンナ嬢。こんなところに一人で何をしているのかな?」
「──グレゴール様っ!」
グレゴールに声を掛けられたアンナは、弾かれたように立ち上がりスカートを持ち上げて挨拶をする。
グレゴールは、あくまでも高貴な紳士としての笑顔を貼り付けたまま少女へと話し掛ける。
「君は、研究室には行かないのかい?今さっき研究室の前で、銀髪の目が眩むほどの美人の腰に手を回したロイズとすれ違ったんだよ」
「あ……それは、きっと私のお姉様だと思います!」
「アンナ嬢の姉……と言うことは、あの子がフェリシア様か。噂に違わぬ美貌の持ち主だな」
グレゴールは深く納得しながらも、気味の悪い視線をアンナへと向ける。
「お姉さんが、あれだけ綺麗だとアンナ嬢も不安だよね?ロイズが取られちゃうかもしれないだろう?さっきだって、随分と身体を密着させていたよ」
アンナは瞬きもせず、薄い紫色の瞳でじっとグレゴールを見つめ、静かに血塗りの男の話を聞いている。アンナが無表情なのを、ショックを受けていると思ったグレゴールはさらに言葉を続ける。
「フェリシア様がロイズに本気にならないよう、くれぐれも見張っておいた方が良いかもしれないな」
「──お言葉ですが、グレゴール様?」
グレゴールは「なんだい?」と言って、アンナが取り乱す様を想像して、楽しそうに期待の眼差しを向ける。
「貴方様がそのようなお言葉を私に言うことによって、どんな反応を期待しておられるのかは分かりませんが──フェリシアお姉様をまるで『尻軽女』とでも言うような発言は、今後は控えていただいてもよろしいでしょうか」
先ほどまで、ただの子どもだと思っていた少女は微笑んでいた。正確に言えばそう見えただけだった。何故ならアンナの瞳は全く笑っておらず、むしろグレゴールに対する激しい憎悪が燃え盛っていた。それだけでなく『子ども相手にしか強がれない小物』とでも言いたげな表情で、相手を嘲笑うような笑顔を浮かべているのだった。
「──ガキのくせにっ……!!」
グレゴールは、アンナを構ってやろうと思っていたことなど忘れ怒りのままに血濡れた手を振り上げた──その瞬間。
「きゃーーーーーーーー!!おやめくださいぃぃぃぃっっ!!!グレゴール様ぁぁぁぁぁぁぁ!!」
アンナの甲高い絶叫が中庭へと響き渡る。先ほどまで、グレゴールを嘲笑していたのが幻だったかのように、その瞳は恐怖に濡れ、小さな体躯はガタガタと震えていた。
アンナの絶叫を聞いた使用人や兵士たちが、慌てて駆け付けてくる。そして、グレゴールが血濡れた手を振りかざし、その足元では可憐な少女が震えて縮こまっている場面を目撃した。
「──なっ!!……おい!」
少女は血濡れた男が何かを言うよりも早く、グレゴールの足元へとひれ伏し許しを請い始めた。
「アンナが悪かったですぅぅぅ!!グレゴール様のお顔が血塗れだったので、ハンカチをお渡ししようとお声を掛けたのですが……私のような小娘が気安く話し掛けてはいけなかったのですっっっ!!」
グレゴールが慌てて口を開こうとしたが、周りからの蔑んだ目線や非難の声に唖然とする。
(──はめられた!!)
彼がその事実に気が付いた時には、可憐な少女を殴ろうとした非道な男と、健気な第一皇子の婚約者の少女という構図になっていた。
──カチャ カチャ
かすかに食器の擦れる音をさせながら、ティーセットを並べたトレイを運ぶゲイルが、ざわつく中庭へとやって来る。遠目から見ただけで現状を把握していた彼は、何事もなかったかのようにグレゴールとアンナへ近付く。
「アンナ様、使用人たちも見ております。お立ちください。……あぁ、ドレスの裾が汚れていますね。着替えを用意させますので、一度お部屋へお戻りください」
ゲイルの落ち着いた声音に、アンナは汚れたドレスの裾を持ち上げ礼をすると、何も言わず小走りで中庭を後にした。アンナが立ち去ってからも呆然と立ちつくすグレゴールに向き直ったゲイルは、彼にも静かに声をかける。
「グレゴール様、このままここにいては目立ってしまいます。ガゼボへ移動してはいかがでしょうか。あちらになら食事用にご用意していたナプキンがございますので、まずは血を拭き取った方がよろしいかと」
毒気を抜かれた様子で何も言わずトボトボとガゼボへと歩き始めたグレゴールの背中は、やけに小さく見えたのだった。
研究室では、まさにこの部屋の真上の中庭で、グレゴールがアンナによって鼻っ柱をへし折られたと知らない兄弟の議論が続いていた。
「──しかし!どの魔晶石に魔物の魔力が籠められているかなんて分からないのに、どうやって城の周辺に魔力を流そうと言うのです!?」
「魔晶石は、地下で自然に生成されていく。新しい魔晶石が生成される度に、古い魔晶石は下から押し上げられ、地表へ露出していくというサイクルが判明している。そして、魔物たちは地表に露出している魔晶石にしか魔力を籠められない」
「ですが、地下にだけ魔力を流す方法なんて──」
ルカはそこまで言ってから、慌てて部屋の中を見渡す。先ほど、フェリシアが作った魔晶石をはめた場所からは、壁に沿って部屋を一周する回路が刻まれている。その回路に沿って電球が付いているが、その場所はちょうど東西南北のそれぞれの方角に位置していた。
「お前が思う通り、その電球を外した下にある魔力を伝播する装置から魔力を籠めるんだ。──そして、フェリシア様の魔力だけで満たされた魔晶石が完成するということだ」
ロイズの話を聞いていたフェリシアは、今すぐにでも発言したくて、もどかしい思いを抱えていた。
(私の魔力で救える命があるなら、いくらでも差し出すわ!魅了魔法なんてかけられなくても、執務室で言ってくれたら……その時にすぐにでも魔力をあげたわ!)
ルカは、この作戦のためだけに完璧に整えられた地下の研究室の存在に、ロイズの本気度を感じて背筋が冷たくなるのを感じた。
一見、安全そうに見える作戦だが、魔晶石が自然に生成されるということは、永遠に魔力を放出しなければならない。それは、ガルヴァスの民のために、フェリシアの命を差し出せと言っているのに等しく、受け入れることの出来ない作戦だった。しかし、フェリシアの性格を考えたルカは呟くように言った。
「──フェリシア様なら、きっと魅了魔法などかけなくても魔力を提供なさると思います。こんな非人道的なやり方ではなく、期間や報酬などの取り決めを交わすため、正式に申し込まれてはいかがですか?」
「初めは……フェリシア様に婚約を申し込み、僕の伴侶として公私ともに支えてもらいたかったんだよ。しかし、彼女はすでにエドガー・クレイと婚約を結んでいた──ルカ、もうこの話は終わりにしよう。今夜、フェリシア様の魔力を伝播させる」
ロイズはそう言うと、淡いピンクの霧を広げ続けている装置から魔晶石を取り外す。そして、フェリシアを愛おしそうな瞳で見つめると、壊れ物でも扱うような仕草で完璧にエスコートをして研究室を後にした。




