黒豹の精霊
謁見の間を後にしたレナは、出陣の準備のため自室へと戻っていた。
肌に馴染み始めていた侍女の衣服を脱ぎ捨てる。そして、一ヶ月前まで身に纏っていた、肌に馴染み過ぎた純白の近衛騎士団副団長の軽鎧へと袖を通す。
彼女が腰の剣帯に差し込んだのは、一本の細く美しいレイピア。その柄には、ブラックオパールが埋め込まれている。
その石の内部の闇の奥では「赤、青、緑、金色」の光の粒子が、宇宙の星雲のようにギラギラと明滅していた。──まるで、レナが再びこの宝剣を手にしたことを喜んでいるかのようだった。
(やっと、この家名から逃れられたと思っていましたが⋯⋯またレナ・フォン・オブシディアと名乗る日が、こんなにも早く訪れるとは予想外でした。)
レナは宝剣の石を、指先でなぞるようにして触れ、静かに名を呼んだ。
──ネロ、おいで。
オブシディア家に代々受け継がれてきた宝石は、持ち主の呼び掛けに応じて鈍い光を放つ。
──グルルルルッ
地を這うような低い咆哮と共に姿を現したのは、馬ほどの体躯を持つ黒豹だった。
黒豹は迷わずに、レナのすぐ横へとやってくる。
そして、前脚をグイーッと突っ張り身体を伸ばしながら、意味有りげに問い掛けた。
「レナ、一ヶ月も経たないうちに、もう剣を取ったのか?」
「私は、王家へと仕える身です。そう命じられれば従います。ネロ、あなただって私に命じられたから、今ここにいるのでしょう?」
レナは、言葉を返しながら自室の扉へと向かう。そして、勢いよく開け放つとネロを振り返った。
「さぁ、フェリシア様を探しに行きますよ。まずは、ディルムントへ向かいます」
ネロは、やれやれといった様子でゆったりと歩いてくる。そして、──乗れ、とだけ言うと少し姿勢を低くする。レナが飛び乗ると同時に、王城の廊下を疾走し始める。
使用人や巡回中の兵士を器用に避けながら、壁や天井を縦横無尽に駆け抜け、その大きな体躯からは想像もできない軽い身のこなしだった。
「──レナ、急ぎなんだろ?」
「はい。今すぐにでもディルムントへ行きたいです」
レナの無茶な要望に苦笑いを浮かべたネロだが、──振り落とされるなよ!と言うが早いか、廊下に設置されていた花瓶の影へと飛び込み、そのまま姿を消したのだった。
レナが王城を出発したほんの1時間後、ディルムントのオズワルドの店へと立ち寄っている、エドガーの姿があった。
「昨日、ここから黒馬で逃げていった少年と、荷馬車で作業をしていた少女についてなんだが──」
エドガーが全てを言い終わる前に、オズワルドが黄金の騎士の発言を遮る。
「騎士様、彼らは愛し合っているのです!ここでも、仲睦まじく過ごしておりました!」
オズワルドは今にもエドガーへと縋りつきそうな勢いで、言葉を重ねながらにじり寄ってくる。
「彼らを⋯⋯愛し合う二人の純粋な気持ちを許して、さしあげてくれませんか!?」
(──愛し合っている、だと!?)
オズワルドの言葉に、エドガーは雷に打たれたかのように微動だにしなくなってしまう。
しかし、すぐに我に返ったエドガーは気を取り直して強い口調で告げる。
「それはダメだ。その願いだけは、何があっても叶えることはできない」
「騎士様!!貴方様には、身を焦がす程に恋焦がれる相手はおられないのですか!?」
オズワルドは、エドガーの情に訴えようとしたつもりだったのだろう。しかし、その手法は彼にとっては全くの逆効果だった。
「私が、この身を焼き尽くすほどに恋焦がれ、この腕の中へと閉じ込めて、二度と出られないようにしたいと渇望しているのは、荷馬車にいた少女⋯⋯私の婚約者ただ一人だ」
独占欲まみれの言葉や切なげな表情とは裏腹に、エドガーの澄み切った深い青の瞳には、純粋な愛の炎だけが燃え上がっていた。
「──なっ⋯⋯!?」
(──愛のない政略結婚から逃げ出すための、若い二人の駆け落ちとばかり思っていたが、実は三角関係だったのか!!⋯⋯そう言えば、熱い視線を送っていたのは、いつもアレクシスだけだったな。)
オズワルドはそれ以上、何も言えなくなってしまう。そのまま俯いてブツブツとなにやら独り言を呟いているようだ。
(──この騎士様だってセレーネとの未来を取り戻そうと必死だったのか。そもそも、見ず知らずの私を悪党から救い出してくれた、立派なお方ではないか。)
オズワルドは、不思議そうな表情で自分を凝視するエドガーに静かに伝えた。
「セレーネと出会った時から、彼女の左手にはずっとタンザナイトの指輪がはめられていました。……もしかしたら、あの子にはまだ騎士様への想いが残っているのかもしれません」
それを聞いたエドガーは、パッと表情を明るくする。男のオズワルドさえ、心臓が跳ねるような、その花が綻ぶような嬉しそうな表情は、通行人たちの足を止め見惚れてしまうほどの美しさだった。
「エドガー様。見せ物になっていますよ」
突然、エドガーの背後から囁くような声が忠告を促す。
その声にエドガーが驚いて飛び退き、振り向いた先には、腰にレイピアを差し軽鎧を着たレナが立っている。純白のマントに軽鎧に身を包んだレナは、凛とした佇まいの中にも気品が漂っていた。
そして、その横にはピタリとレナに寄り添うように、漆黒の立派な黒豹が威風堂々とした佇まいで、エドガーを見据えていた。
「よう、エドガー。お前、相変わらずキラキラしてんなー」
「ネロ。エドガー様に、そのような口の利き方はやめなさいと、何度言ったら分かるのですか?」
ネロは、はいはい、といった様子で肩をすくめる……ような動きをする。
そんなレナとネロのやり取りに、エドガーは目を細める。
(たった一ヶ月しか経っていないはずなのだが、このやり取りが懐かしく感じるな)
そして、エドガーは颯爽とした足取りで一人と一匹へと近付く。
「レナ、どうして騎士団の服装を?侍女はやめたのか?」
「仕える主がいなくなってしまいましたので、今だけ、主を捜索する任務を与えられました」
「そうか。私が不甲斐ないばかりに、迷惑をかけてしまったな」
「とんでもございません。ガレス様の落胆する姿も見ていられませんでしたので」
「──ち、父上が何かしたのか?」
「ガレス様は、エドガー様が婚約者に捨てられたと思い込んだ挙句、『婚約者を繋ぎ止める為のアドバイスを守らないからだ』と、皆の前で暴露しておりました」
エドガーが片手で顔を覆って天を仰ぐ。そんなエドガーを見兼ねたネロが二人の間へと割って入る。
「二人とも、立ち話はやめてさっさと捜索を開始した方が良いんじゃないか?──さて、魔道具店の主よ。先程から私へ不躾な眼差しを向けているようだが……そんなに私が珍しいか?」
ネロは突然、鋭い眼光をオズワルドへと向ける。
突然、自分へと話が振られたオズワルドは、黒豹の威圧感に慌てて深々とお辞儀をする。
「大変失礼いたしました!昔、ある人から黒豹の精霊の話を聞いたことがありましたが……こんなにも美しいのかと、驚いてしまいました」
「はっ!当たり前だ。私の美しさの前では、黄金の騎士とやらの輝きも霞んでしまうだろ?」
ネロが上機嫌になったのか、尻尾が左右にふわりふわりと揺れている。エドガーとレナが、顔を見合わせて、ふっと微笑み合う。
「では、私たちも行くとしよう。店主、時間を取らせて申し訳なかった。それと──指輪の件を教えてくれたこと、感謝する」
二人と一匹は、魔道具店を後にするとディルムントから外へ向かうため、城門へと歩き始めた。
まだ太陽が昇りきらない午前中、まばゆい朝の光の中を進む神々しい黄金の騎士と純白のマントをなびかせた凛とした表情の女騎士、そして漆黒の美しい巨大な黒豹が前を見据えて歩を進める。
この、よく目立つ一行が通った城門までの道では、今見た光景が幻なのではないかと二度見をしたり、目をこすってまじまじと見つめる人が続出していた。




