渓谷の魔物
シリルから逃れたフェリシアは、ディルムントからさらに西にある渓谷の上空へとやってきていた。
(かなりの時間、移動してきたわよね。)
ディルムントの街でシリルに襲われたのが、およそ12時頃。それから追っ手がいるかもしれないことを危惧して、何度も回り道を繰り返し、白馬の体力を気遣いながら西へ西へと進み続けた。
懐中時計の針は、17時を過ぎた辺りを指し示していた。春の太陽は西の空へと少し傾き始め、爽やかだった青空は、徐々に淡い黄金色へとその色を変えつつある。
まだ周囲は十分に明るいものの、高くそびえ立つ崖の影は、東の地へと向かって長く、冷たく伸び始めている。
「⋯⋯下へ降りましょうか」
──ブルルルッ!
白馬はフェリシアの声に反応し、西の渓谷の谷底へとヒラリと降り立っていく。
「──よいしょっと」
白馬の背から地面へと降り立ったフェリシアは、長時間に渡る移動のため、鞍のない白馬に乗っていたこともあり、ガクッと脚の力が抜けるのを感じた。
──グイッ
ゴツゴツとした岩場へと崩れ落ちそうになるのを、白馬がフェリシアのフードへと噛み付いて支えてくれる。
「⋯⋯あでぃがどう」
白馬にフードを咥えられ、上へ引っ張り上げられたフェリシアは、首がキュッと締まりかけ、不気味な声でお礼を呟いた。
「⋯⋯うーん。今日は、もうこれ以上は移動できなさそうだわ」
白馬に寄りかかりながら立ち上がったものの、フェリシアの足がガクガクと震えてしまい、まともに歩けない。
この状態で白馬へ乗ったとしても、身体を保持することが出来ず落馬してしまうだろう。
「どこか、休める場所を探しましょう」
フェリシアは、ゆっくりと渓谷を歩き始めた。大小様々な岩や、地面から天に向かってそびえ立つ巨大な岩の柱を縫うように進んでいく。
白馬はフェリシアを気遣うように、ぴったりと寄り添いながら、地面すれすれを歩いてくれている。
──ブルルルッ!
少し進んだ先で、フェリシアがちょっとした壁の窪みを見付けたところで、白馬は突然立ち止まり低い音で鼻を鳴らす。
耳をピクピクと忙しなく動かして、周りの音を探っているようだった。
「どうしたの?」
フェリシアが、不思議そうに白馬の顔に触れようと手を伸ばした瞬間、白馬がフェリシアの身体へと覆い被さるように自分の頭を乗せる。
そして、そのままグイグイと窪みの中の地面へと押し付けられた。
「⋯⋯そんなに押されたら、痛いわ⋯潰れちゃう!」
フェリシアの抗議の声を無視した白馬の身体からは、モクモクと白い霧が発生していた。その霧は、地面でうつ伏せになっているフェリシアもろとも、あっという間に包み込んでいく。
──グルルルルッ
うつ伏せになっているフェリシアの視線の先、岩柱が並び立つ隙間に、鋭い爪を持つ何者かの毛むくじゃらの太い足が見えた。
身体の全容は見えないが、足の太さからしてかなり大きな四つ足の生き物のようだった。
──フガッ フガッ
その生き物は、何かの匂いを辿っているらしく繰り返し鼻を鳴らしながら、近辺を探っている。じっくり周囲の匂いを嗅ぎながら移動するのに合わせて、鋭い牙と涎が垂れている大きな口元が見えた。
──ジュッ ジュワッ
大きな口元から垂れた涎が、いとも簡単に岩や地面を一瞬で溶かしていく。どうやら強力な酸性の涎のようだった。
(──この特徴は、ヴェノム・ファング!?)
ヴェノム・ファングは、巨大な狼やハイエナのような四つ足の姿をしており、その目は退化している。
その代わりに、鼻と耳が異常に発達している暗殺型の魔獣だ。視覚に頼らないため、認識阻害の魔法はほぼ効果がない。
そればかりか、生き物の発する「体温」や「匂い」「音」に強い反応を示すため、見つかるのは時間の問題だった。
(このままここにいたら、見つかってしまう!しかも、この窪みだと逃げ場すらないわ!)
──ぐぐっ
覚悟を決めたフェリシアが、白馬の下から抜け出そうと全身に力を込める。しかし、白馬を動かすことはおろか、自分の身体を数センチも動かすことができなかった。
(──お願いだから、私の上からどいて──)
フェリシアがもう一度、全身に力を込めた瞬間、身体にのしかかっていた圧倒的な重さが急に消えた。
──ガバッ!
何事かと、身体を起き上がらせ見上げた先には、今まさに白馬が窪みから飛び出していく後ろ姿が見えた。
──ヒヒーーーーン! パカラッ! パカラッ!
いつもは空を駆けていて、滅多に地面へ降り立つことのない羽駆馬が、わざと地面に自らの蹄を乱暴に打ち付けて、激しく音を立てている。
(──自分が囮になるつもりなの!?)
フェリシアが白馬の思惑に気が付くと同時に、ヴェノム・ファングもバッと白馬へと鼻を向ける。
そして、間髪入れずその凶悪な口を極限まで開きながら、白馬へと飛び掛かっていく。
──ガァァァァァァ!!
口を開けながら激しく動く度に、強力な酸性の涎が飛び散り、あちこちからジュワッと、一瞬で物質が溶ける音がする。
──パカラッ パカラッ!
白馬は、ヴェノム・ファングの攻撃をひらりと躱しながら、しかし激しい音を立てるのはやめず、少しずつフェリシアのいる窪みから距離を取るように後退していく。
(まだ魔物との距離が近すぎる⋯⋯今、私が動いたら、白馬さんの行動が全て無駄になってしまう⋯⋯!)
フェリシアは白馬が心配で仕方ないが、二つの激しい音が遠ざかるのを、祈るような気持ちで待つしかなかった。
(白馬さんが、無事にあの魔物を遠ざけられますように──!)
フェリシアはそっと胸の前で両手を組み、巨大な岩柱ばかりの天を仰ぐ──と、岩柱の頂上で何かがキラリと光った。
何が光ったのか、と思うよりも早く、その光から音速の一筋の魔法が放たれた。
──ピシュンッ!
鋭く短い音がしたすぐ後、地面へと巨大な魔物の巨体が倒れ込む音が響く。
いてもたってもいられなくなったフェリシアが窪みから飛び出すと、そこにはすでに絶命したヴェノム・ファングがいた。よく見ると、頭の急所を寸分違わぬ精度の魔法で撃ち抜かれているようだった。
その死骸を前に驚愕していると、少し離れた場所からフワリと空中へ駆け上がる白馬の姿が見えた。
「──白馬さん、無事だったのね!」
フェリシアが声を掛けるが、白馬はフェリシアを飛び越え、先ほど魔法が放たれた岩柱の上へと駆けていく。
(──誰か、いるの?)
フェリシアは目を凝らして見上げてみるが、陽の光を背中に浴び岩柱の上で佇む人物の顔を識別することはできなかった。しかし、光を浴びたその髪は神々しく白色に輝いて見える。
──ヒヒーーーーン!
白馬は、助けてくれたことへのお礼を伝えるかのように、その人物へ近寄ると鼻先を擦り寄せ撫でてもらっているようだった。しばらくすると、白馬は上空からこちらへと、また駆け戻ってきた。
「白馬さん、さっきはありがとう」
フェリシアも鼻先を撫でて感謝を伝える。そして、また上を見上げた時には、先ほどの人物は忽然と姿を消していた。




