西の森
フェリシアとルカは腰の高さまである下草が覆い茂る、西の森に入ってから一時間ほど経っているが、魔物にも遭遇せず、運よく獣道を発見していた。
「ここを通ればだいぶ進みやすくはなるわよね。でも、魔物や大型の野生動物に出くわしたら厄介だし⋯⋯」
フェリシアは、目の前の獣道を行くか、下草の中を進むか悩んでいた。
「私はまだまだ山刀を振るえますよ!」
ルカは、森に入ってからずっと厚刃の山刀を振るっていたが、恐ろしいことにあまり疲れていないようで、笑顔で腕を回して筋肉をほぐしている。
(もうすぐ、日も完全に落ちるし⋯⋯夜の森を進むのも命懸けになるわよね。朝まで待つ⋯⋯?)
今来た道を振り返っても、さすがに城の大篝火台の明かりは見えない。だからといって、城からすごく離れたわけではないだろう。
(なるべく早く、少しでも城から離れたいんだけど⋯⋯何が良い方法はないかしら。)
フェリシアが難しい顔で悩んでいると、ルカが──あの⋯魔法で行きます?と、呑気に提案してきた。
「私、空気を集めて足場にする魔法が使えるんです!さっきは、城からあまりにも近かったので、使わない方が良いかと思っていましたが」
「フェリシア様もご存知ですかね?ヴェント・ソウラムという魔法なんですが」
「それって、失われた古代魔法じゃない!?」
フェリシアの背筋に、冷たい戦慄が走った。思わず声を荒らげた姉に対し、ルカは「えっっ!!」と目を丸くして戸惑っている。
「私の家系のほとんど人が、この魔法を使えますよ!!」
──エバンス家で、失われた古代魔法が代々引き継がれている?
フェリシアの頭の中は「?」で一杯になる。
そもそも、古代魔法は『血』で発動する。特有の王族や公爵家に流れる血でしか使用ができない。
「失われた」というのは、その特別な血筋が歴史の闇へと消え、途絶えたからだった。
「──ルカ、古代魔法が使えることを、あまり口外しないほうが良いわ。下手したら、私なんかよりあなたを捕まえた方が利益になる人もいるだろうから」
フェリシアの物騒な発言に顔を青くするルカ。
「⋯⋯分かりました。では、この魔法は使わずに、このまま進みますか?」
「──でも、古代魔法を見てみたし⋯⋯っ!!今は、私しかいないから使っちゃいましょう!!」
──ふふっ、分かりました!では、ちょっと失礼いたします!
ルカはフェリシアの華奢な体を軽々と横抱きにすると、大樹の枝々へとうまく飛び移りながら、一気に木のてっぺんへと到達した。
視界が開け、夜の冷たい風が二人を包み込む。
「ヴェント・ソウラム!!」
ルカの詠唱とともに、大樹の上に点々と透明な空気の塊が出現した。
満月の冷たい月夜に照らされたその足場は、まるで水晶を砕いたかのようにキラキラと幻想的な輝きを放っている。
「私の後から来てください! 少し急いで進みます!時間が経つと、この足場は消えてしまうので気を付けてください!」
「分かったわ!」
ルカの横抱きから降りたフェリシアは、彼の後ろを追うように、少しジャンプしながら空気の塊へと足を運んでいく。
踏みしめるたびに、フカフカの小さな絨毯が空の上に点々とあるような、不思議な感触が伝わってくる。道なき原野の草木を這うこともなく、どこまでも歩いていけそうな万能感。
——なんて楽しいのかしらっ!! 空を飛んでいる気分だわ!!
深いフードの奥で、白銀の王女は瞳を輝かせ、上機嫌でステップを踏む。ルカは何度も後ろを振り返りながら、彼女の様子を確認する。そして、繰り返し、繰り返し魔法を発動させていった。
(⋯⋯それにしても、夜空でキラキラ輝く足場の上を、軽やかに移動するフェリシア様のお姿も、舞い踊る妖精のようでなんて美しいんだろう。)
高嶺の花の美しさに、ルカはキャスケット帽の奥で再び熱く胸を焦がしていた。
ルカの古代魔法のおかげで、獰猛な魔物や大型の野生動物にも一切遭遇することなく、二人は夜の空中を恐るべき速度で移動し、かなりの距離を稼ぐことに成功したのだった。
鬱蒼とした暗い森の終わりが、いよいよ眼下に見えてきた頃。さらにその先の地平線、漆黒の闇の中に、無数の魔道具の光が明滅するきらびやかな明かりの群れが、ぽつぽつと見え始めた。
「ルカ!ディルムントが見えてきたわ!」
「あれが、魔法都市ディルムント⋯⋯一旦、木に降ります!」
ルカの合図とともに、二人は最後の大樹の太い枝の上へと滑り降りた。周囲はまだ、夜明け前の深い漆黒の闇に包まれている。
ここまで約八時間──夕暮れの脱出から一睡もせず、休むことなく移動を続けてきたため、二人の体には鉛のような重い疲労感がのしかかっていた。
「このまま朝まで休みましょう。交代で眠れば、魔物からの襲撃にも備えられるわ」
「それでは、フェリシア様がお先に休んでください。しばらくしたら、お声を掛けさせていただきます」
──ありがとう。先に休むわね。そう呟くと、フェリシアは鬱蒼と茂る大樹の葉の上へ、パタリと横になって小さく丸くなった。
張り詰めていた緊張の糸が切れたのだろう、彼女はあっという間に静かな寝息を立て始めた。
(フェリシア様、身体だけでなく、心も疲れているだろうから⋯⋯空が明るくなってくるまで眠っていてもらおう)
ルカは背中の工具袋に偽装した大剣を下ろし、少し楽な体勢で太い枝の上に腰掛けた。
夜目はそこまで効かない。だからこそ、少年兵は周囲の音へ鋭く神経を集中させる。
──木々の葉が擦れる音。
──夜の虫の鳴き声。
──冷たい風が通り過ぎる音。
──馬の、激しく大地を駆ける音⋯⋯馬っ!?
ルカは驚いて跳ね起き、木の遥か下へと広がる暗闇の空間に目を凝らした。
(エドガー様っ!!??)
下草が鬱蒼と覆い茂る険しい森の中。わずかな満月の光すら味方につけ、その輝きを一切失わない黄金の髪を激しく揺らしながら、猛烈な勢いで馬を走らせている男がいた。
近衛騎士団長、エドガー・クレイだ。
その、己の存在感を消そうともしないで狂気的に疾走する姿に気づいたのだろう、闇から現れた犬型の魔物が数匹、牙を剥いて馬上へと一斉に飛びかかるのが見えた。
──ザシュッ!!
しかし、激突の音は響かなかった。エドガーは馬上から手にした剣をただ一振りしただけで、襲いかかった魔物たちをまとめて一瞬で無力化したのだ。
そして、何事もなかったかのように、血肉を撒き散らしながらそのまま前方に広がる闇へと馬を走らせ続けていた。
(さすが、黄金の騎士様だっ⋯⋯!!)
ルカは木の上で完全に息を潜めた。闇夜の森であまりにも目立ってしまうその赤い瞳を、エドガーに悟られぬよう、ルカは慌てて強く目を閉じた。
しばらくして再び耳を澄ませば、激しい蹄の音は彼らが潜む大樹のすぐ側をすり抜け、そのまま地平線の彼方へと駆け抜けていった。
(エドガー様が目指したのは、きっとディルムントだよな⋯⋯後でフェリシア様にもお伝えしなければ。)
ルカはキャスケット帽を深く被り直し、はぁと息をついてから赤い瞳を開く。
すぐ傍らでは、白銀の王女が何も知らぬまま、薄桃色のパルス・コンパスに追われているとも知らず、静かに眠り続けていた──。




