7.前世の記憶
夜だった。俺は墓地にいた。墓石の前に一人で立っている。
ああ、ここにサンドラが眠っているのだと直感した。
ホォォと梟が鳴くのを合図に、木々が一斉に騒ぎ出した。薄明りの中でもぞもぞと動く枝葉が、俺に向かって伸びる手のように感じる。
恐怖に駆られ、墓石に背を向けて走り出そうとした時、後ろから右の足首を掴まれた。
俺はヒッと喉の奥で悲鳴を上げる。
食い込む程に、掴む力が強い。
恐る恐る振り返ると、口の端を真っ赤にしてニタリとクレアが嗤っていた。掘られた墓から上半身だけ這い出てきている。
声にならない悲鳴を上げ、俺は彼女の顔を蹴りつけた。
「ガッ」と少女が首を後ろに倒す。
力が緩んだ隙に、俺は全力で墓地を走り抜けた。
肩を大きく上下させながら後ろを確認すると、もう彼女はいない。
助かった。
顎を伝う汗を拭いながら俺が首を戻すと、それまで地面だった足元がブラックホールのように口を開け、俺を飲み込もうとしていた。
「うわあっ」
反射的に身を引こうとしたその瞬間、俺の背を誰かが力いっぱい押した。
体が宙に投げ出され、浮遊するのをスローモーションで感じる。助けを求めて伸ばした手は意味をなさず、前に流れていった。
ぶつかる!
固い階段に叩きつけられ、俺は一番下まで転げ落ちた。
全身に鈍い痛みが走り起き上がれない。指先でアスファルトを撫でるのがやっとだ。
「ううっ」という力ない呻き声は、すぐに消えた。
血で重い瞼を持ち上げ黒目を彷徨わせると、すぐ真上にいた人影と目があった。
「キャハハハハハ」
その女の歪んだ口元が嬉しそうに笑うのを見た瞬間、俺は声にならない悲鳴を上げてベッドから飛び起きた。
ハァハァと息を荒らげ、シーツを握りしめる。じっとりとした汗が首筋を伝って落ちた。バクバクと心臓の音が大きく頭に響く。
まだ夜中だ。
そろっと懐中時計を手に取ると夜の二時を指している。
俺は髪をかき上げ、膝に顔を埋めるように座った。シーツの擦れる音がやたらと大きく感じる。
最後に見た女の顔はクレアではなかった。あれは、元の世界にいた俺のストーカーだ。
それに落下時の、あのリアルな浮遊感。
痛みと血の匂いを纏った映像が、溢れ出るように俺の脳裏に蘇る。
不気味な赤黒い満月を背に、歪んだ笑みを湛えた女が歩道橋の階段を一段ずつ下りてくる。肩に垂らしたピンク髪と、ワンピースのミニスカートがその度に楽しそうに跳ねた。
俺は焦点の合わない目を彷徨わせる。
口元に手を当て、恐怖に耐えた。
そうだ。俺は異世界に来る前、ストーカーに階段から突き落とされたんだ。
こんな大事なことを、どうして忘れていた。
階段で頭を打ったからか?
口内に鉄の味が蘇って、気持ち悪さに吐きたくなる。
――俺は死んだのか?
冷たくなった手の先を目に入れる。
俺の指はこんなに真っすぐではないし、白くもない。手のひらにあったはずの黒子もない。
ブリーチをかけパサパサだったはずの髪は、柔らかく艶がある。
立ち上がると、いつもより目線が高い。
俺はベッドの右手にある大きな鏡に歩み寄り、自身の姿を映した。美しく通った鼻筋に青い瞳、薄い唇。知らない顔だ。
誰だ、これは?
俺は誰だ?
生きた心地がしないのは俺が幽霊だからか?
宇宙の果てに放り出されて二度と元の体に戻れない。親にも恋人にも、もう会えない。
俺を「葵」と呼ぶ人間はこの世界にはいない。
事情を知るライトの両親やキリアも、俺を透過して「ライト」を見ている。彼らは俺が消えることを望んでいる。
両手で頭を抱えた。
『悪魔祓いを――』
ライトの母は間違っていないのかもしれない。
俺はこいつに憑りついたのか?
『異常者は凶悪性を巧みに隠しながら、私たちの間に紛れて普通に生活を送っているのです』
嫌だ、違う。俺はあいつらとは違う。
……本当に?
彼らはこの世界の住人だが、俺は違う。
俺が一番の異常者じゃないか?
首筋を押さえた。
いまだに痛みが引かない。
嫌だ。無理だ。
精神棟に入れられるくらいなら舌を噛んで死んだ方がマシだ。
耳鳴りがひどい。体の表面を逆撫でされているかのように肌が不快だった。
臓器がなくなったように、体内に生気を感じない。
恐怖だけがいつまでも溢れてくる。
力なく手を落とした哀れな男を笑うように、蝋燭が大きく影を揺らした。
その時、壁に掛かった大きな絵画が目に入った。
拳を突き上げながら群衆を率いる、赤い瞳の王と目が合う。
五百年ほど前、彼は騎士階級でありながら武力で王座を奪い取った。ウィリアム公爵家は元々王族の血など引いていなかったのである。
『奪ってしまえ』
絵画の王が、俺にそう囁いた。
そうだ。元の世界で死んだのなら、俺に残された選択肢は一つ。
――ライトの体を乗っ取り、ライトとして生きていく。
そう決めた途端、なぜか生きる力が湧いてきた。
ベッドサイドに置かれたパールの手紙が目に入る。
『ライトに早く会いたい いつでもあなたを想っています』
彼女に会おう。
俺は手紙を抱きしめ眠りについた。




