5.精神棟
馬車を二時間走らせた町はずれに、高い塀に取り囲まれた建物があった。『カバーニュ精神棟』と横文字で書かれた看板が、灰色の塀に埋め込まれている。
投資の失敗を受け父から行くように命じられた、異常者の受け入れ施設だ。
厳重に括られた鎖を二人の門番が解き、両開きの門扉が開放された。馬車が入るなり、錆びついた緑色の門が閉まり、逃げ場を塞がれた気になった。
馬車の中から横長の二階建ての建物を見上げて、俺は左手を額に当てた。
古ぼけたレンガ造りの建物は廃墟のような雰囲気が漂っている。なぜかその建物の周囲だけ暗く見えた。
地面からびっしりと這った蔦が一階部分を覆い、二階まで伸び上がろうとしている。
脱走防止のため、ただでも小さな窓だ。蔦まで這えば採光は望めないだろう。
雲足の速い鈍色の空が余計に俺を憂鬱にさせた。
「ライト様、そろそろ」
先に馬車を下りていたキリアに急かされ、俺はのっそりとした動作で地面に降り立った。
館長らしき男が屋敷のドアの前で、にこやかな笑顔を作って待っている。
「お待ちしておりました。館長のケビンです」
俺は彼に近寄り、親しみやすい表情で力強く握手をした。失敗すれば、そのままここに収容されるかもしれないのだ。
「急な視察を快く受けてくれて感謝している」
「こちらこそ。ウィリアム公爵家の方々が我が施設に興味を持ってくれているとは光栄です。さあ、どうぞ中へ」
影が落ちた細い廊下を、館長は慣れた様子で進んでいく。この施設の歴史や取り組みを早口で語ってくれる。
蔦の隙間から微かに漏れる光が、ボロボロの壁紙を映し出して薄気味悪かった。
右手にある木製のドアを二つ通り過ぎる。
狭い廊下で隣を歩くケビンの顔が曖昧に見えた。彼は館長でもあり、精神学者でもあるという。
「こちらです」
ケビンが立ち止まり、部屋を手で示した。ドアは凹み、数か所に刃物で切りつけたような傷が入っている。
「くれぐれも患者には近づき過ぎないようにしてください。危険ですから」
「ええ」
俺は短く返事をして、ケビンに続いてドアを潜る。
漂ってきた悪臭に手の甲でさり気なく鼻と口を隠した。酸とアンモニアが混じったような臭いがする。
ダンスホールのような広い空間に、白い服を着た二十名程が点在していた。よく見ると、彼らは足首に鉄製の鎖を付けられ床と繋がれている。鎖は他者と触れあえない距離にしているようだ。
服の汚れ具合から体を洗っていないことは想像がついた。この臭いは彼らから発せられていると気づき、無意識に顔を顰める。
複数のスタッフが手に鞭を持って、患者たちを見張っている。まるで刑務所の看守のようだ。
「私が視察に来たので鎖を?」
「いいえ。彼らは四六時中ずっと鎖で繋がれています。そうしていないと這ってでも逃げようとしますから」
「……」
無言になった俺のことは気にせず、ケビンは白い歯を見せた。
「一人一人紹介しましょう。彼はジョージ。ここに来てからずっと意味不明な言葉を喚き続けています」
部屋の左隅にいたジョージは顔を斜め上に向けて、「あー、あー、あああああ」と涎を垂らしながら喚いている。三十代半ばくらいのひょろ長い男だ。左右の黒目が違う動きをするのが恐くて、俺はさり気なく顔を逸らした。
ケビンは鎖の距離を把握しており、上手く患者の間を通っていく。その真後ろを歩く俺は、患者と距離が縮まる度に肝を冷やした。
ケビンが右手を広げる。
「彼女はチャミー。毎日ああやって、ぐるぐるとひたすら回り続けるのです」
チャミーは床の鎖を起点に、時計回りにずんずんと進み続ける。病的に白い肌の少女は、繋がれた右足首が血塗れでも動きを止めようとしない。
何度も同じことを早口で呟いている。
「魔女が出たの。魔女がお父様を殺した。魔女はいるの。骨だけの姿でお父様に乗っかったの。魔女が出たの」
回り続けるのは一種の自傷行為かもしれない。彼女は目線一つ、俺に寄こすことはなかった。
ケビンが俺を振り返る。
「ジョージもチャミーも教会の紹介でここへやって来ました」
「教会?」
「はい。異常な行動や言動があった場合、家族はまず教会に相談に行くことが多いのです。そこで悪魔祓いができなかった人たちが異常者として当施設にやって来ます」
「異常な行動とは?」
「ジョージの場合は同性愛、チャミーの場合は御覧の通り。魔女が出たと一日中喚き続けるのでここへ。父親の死のショックで、この国に伝わる魔女伝説と現実の区別がつかなくなったのでしょう」
同性愛だって? それのどこが異常なんだ。
チャミーだってそうだ。子どもが親の死でショックを受けたのを、大人が放置し続けたから悪化しただけじゃないのか。それか単に中二病の可能性だってある。
この国の異常の定義が分からなくなった。
それならば異世界から来た俺はどうなる?
小刻みに震えそうになる手を、ギュッと握りしめた。
これは父からの脅しだ。次に失敗すれば、お前もここに入れるぞと。
締まる喉で無理に声を出した。
「ここで完治したら元の生活に戻すのか?」
「ええ、その予定です。今のところ誰一人として出たものはいませんが」
この施設ができたのは十一年前だ。俺は言葉を失い、患者たちに目をやる。
殆ど光の入らない部屋に閉じ込められ、行動の自由を奪われている。こんな場所にいて完治するなんて到底不可能だ。
こんな施設で鎖に繋がれたまま一生を終えるなんて想像しただけで頭がおかしくなる。
俺はカラカラの喉に唾を流し込んだ。
ケビンが右隅にいた中学生くらいの少女を紹介した。金髪が腰まで伸びてた彼女は、猿ぐつわをしている。
「彼女はクレア。十歳の時に彼女の両親が連れてきました。噛み癖があるので常に猿ぐつわを噛ませています。そうしないと自身の腕に噛みつこうとするので」
「彼女も教会の紹介で?」
「ええ。このような施設は国内ではここだけですからね」
ケビンが自慢げに口の端を上げた。
俺はすぐにクレアを見る。透き通るようなグレーの瞳がこちらを、じっと見つめていた。
「彼女はなぜ教会へ?」
「虚言癖があるので、手を焼いた両親が教会へ連れて行き、それからここへ」
そんなの、よくあることじゃないか。
彼女は本当に異常者なのだろうか? もし教会の判断ミスで何年もこの施設に閉じ込められているとしたら……。
もしそうなら噛み癖はきっとストレスによるものだろう。
俺は身震いして左腕を撫でた。
布製の猿ぐつわをされたクレアは鎖が伸びる限界まで近づいてきて、白いワンピースを握りしめながら俺を凝視している。
いたって普通の少女だ。
交差した視線を外すことができない。彼女のグレーの瞳が「助けて」と訴えているように見えるのは俺の気のせいだろうか。
「彼女の猿ぐつわを外してやることはできるか?」
俺の提案にケビンが目を見開いた。
「それは」
「何かあれば責任は私がとろう」
「そこまで仰るなら。しかし、彼らに情をかけるのはお勧めしませんよ」
「ああ」
ケビンが男性スタッフを二名呼び、一人が後ろからクレアを羽交い絞めにして動きを止め、もう一人が猿ぐつわを外した。作業を終えた二人は猛獣を前にしたように素早くその場を離れ、鞭を持ったまま彼女を見張る。
猿ぐつわをきつく結ばれていたせいで、クレアの唇は両端が血で滲んでいる。
「やあ、クレア。大丈夫かい?」
俺が話しかけると、クレアは今にも泣き出しそうに目じりを下げた。その口が小さく開く。
「あいあと」
それまで無表情だったクレアが微笑みながら、喉声で舌足らずに礼を言った。きっと声を出すのも久しぶりなのだろう。
俺はそれを見て、初めて彼女と通じ合えた気になった。同時にやはり彼女は異常者などではないという確信し、何とかして彼女を助けなければいけないという義務感に駆られた。
この国の異常の定義は、どう考えてもおかしい。それにこんな人道に反するやり方が許されるわけがない。
猿ぐつわが取れても彼女の足の鎖は付いたままだ。動物園の猛獣たちの方がまだマシな生活を送っている。
「ケビン館長、何か娯楽などはないのか?」
「ありません。楽器や本を与えたこともありましたが、それらを床に叩きつけたり口に入れたりするのでやめたのです」
「では個室などは用意してやれないか? 全員同じ部屋にいるのは患者にとっても負担だろう。それも男女同じなんて」
「そうすると壁に頭を打ち付け始めますよ。とにかく周囲に物がない状況が理想です。それにスタッフの手間も増える。心配はいりません。彼らはこの状況を負担だなんて思っていませんよ。何せ頭がイカれているのですから」
ケビンが人差し指を頭の近くでクルクルと回しながら笑う。感覚が麻痺していることだけは分かった。
クレアが眉毛を下げて数歩後ろに下がった。会話の内容を理解しているのは明らかだ。
俯いた彼女に、俺は胸が痛くなった。
歩き出したケビンが、俺を振り返った。
「次の患者が最後です。参りましょう」
「ちょっと待ってくれ」
俺はケビンを遮り、クレアに呼び掛けた。何の励ましにならなくとも、人として彼女に向き合っているということを伝えたかった。
「クレア。ここでの暮らしが良くなるように俺も何か考えるよ。少しの間、我慢してくれるかい?」
俺が身を屈めると、クレアはゆっくりと頭を上げ、嬉しそうに頷いた。
俺は安心して、油断した。
いつの間にか近寄っていたクレアが、喉奥まで見えるほど豪快に口を開けた。白い歯が並んでいる。
何だろうと思う暇もなく、屈んだ俺の首元に突然、クレアが噛みついた。
「いっ!」
激痛が走り必死でクレアを離そうとするが、噛む力が強すぎて離そうとするほどに痛みが増す。
クレアは獲物を捕らえて離さない鰐のように、俺が逃れようとする度に態勢を変えて食らいついてきた。
ググッと歯が首に食い込む。
このままだと肉を噛みちぎられる!
俺は両目を固く瞑った。
慌ててスタッフがクレアの背に鞭を打ったが、彼女は俺の首に手を回し離れようとしない。
俺は咄嗟に彼女の顔面に肘打ちを食らわせた。
「ぎゃっ」と叫んだ彼女の力が緩んだ隙に彼女を突き飛ばし、その反動で俺も床に尻もちをついた。
激しい息が口から漏れる。痛みのせいでまだ彼女が自分の首に食いついている気がする。
首と肩の付け根から垂れた血がシャツを汚した。肉が削げたのかと思う程の痛みに顔が歪む。
出血個所を手で押さえながら、俺は呆然とクレアを目に入れた。
「キャハハハハハ」
元々血で染まっていた唇の両端がさらに裂け、唇を真っ赤にした彼女がピエロのように笑った。スタッフの一人に鞭を打たれても平然と口の端を上げている。
クレアの目があまりに無邪気で、俺は自分の足で立つことが出来なかった。
直前の衝撃で頭が追いつかず、俺はスタッフに支えられながら立ち上がった。体がよろめく。
たった五分前に分かり合えたと感じたのは都合の良い思い込みだった。
今、俺の目に映るクレアは異常者そのもので、二度と鎖を外してやりたいなどという気は起きなかった。
クレアは面白がるようにニタリと眉を上げ、俺に視線を送り続けている。俺は耐えきれず、最短でこの部屋から出られるドアを探した。
しかし、入室時のドアが唯一の出口だった。もう一度患者の間を通らないといけない。
その途中、患者の最後の一人が目に入った。彼は騒ぎに目もくれず窓から漏れる僅かな光をひたすら見続けている。まるで聖人が神に祈るかのようだった。
もしかしたら彼こそ、などと脳が馬鹿な信号を送ることはなかった。
俺は彼を一瞥しただけで、逃げるようにドアへと戻り始める。
「魔女が出たの」「魔女はいるの」「父を殺した」とチャミーがぐるぐる回りながら一定の間隔で吠えるのを、俺は体を硬くして耐えた。
ようやく部屋を出た時には、銃を持った銀行強盗から解放された人質のような気分になった。生存を喜んだ体が、これでもかとバクバク音を立てている。
疲労と恐怖と安堵に同時に襲われ、言う事を聞かない体が廊下に沈み込んだ。
ケビンがしみじみと独り言のように語る。
「私も昔はあなたのように彼らを信じていました。きっと治る。私が彼らを完治させてみせると。しかし、今ではそんな気持ちは持ちえない。彼らは凶悪で、そのうえ狡猾です。何度も信じて、何度も騙されて分かりました。私が彼らの研究を続けているのは、彼らのためではない。彼らからまともな人間を守るためです」
俯いて壁に背をつけた俺は、ケビンの言葉を頭の奥で聞いた。
「気を付けてください。異常者は凶悪性を巧みに隠しながら、私たちの間に紛れて普通に生活を送っているのです」
お前のように、と言われた気がしたが、俺はもう反応する気力も残っていなかった。




