31.自分の足で
二限の社会心理学の授業を終えた俺は食堂でかつ丼を注文した。円形の食堂は八割方埋まっている。窓際の席に座るとすぐにロールカーテンを下ろした。今日は真夏日だ。汗が首を伝った。
申し訳程度にワカメが入った味噌汁はやや濃いが、セットで付いているだけ有難い。
カツは噛み応えがある。
欲を言えばもう少し脂が欲しいが、甘辛い味付けは空腹に沁みる。
歯ごたえの残った玉ねぎと卵のとろみの相性もよく、週二のペースでかつ丼を頼んでしまう。
異世界でパン食続きだったせいか、温かい米を頬張るとこの世界で生きているという実感が沸いてくる。
異世界から戻ってから、経営学部から心理学部に転部した。
大学を移らなくて良かったのは幸いだが、残念ながら単位が足りず留年となった。
今は後輩に囲まれて勉学に励んでいる。
家を継げとうるさかった父は、意外にもすんなりと転部を許してくれた。適当に生きていた俺にやりたいことが見つかったのが嬉しいらしい。
今はスクールカウンセラーを目指し、公認心理士の資格を取るべく勉強している。
昔の自分の失敗から、子どもたちが素のままの自分でいられるようにサポートしたい。
そう思えたのは、異世界に行って目まぐるしいほどのチャレンジができたからだ。
特にサッカーと向き合えたことが大きかった。サッカー選手になるという夢を追って努力するガットたちに会えたおかげで、夢を追う人たちを応援したいという気持ちが芽生えた。
まあ、実際は想像よりずっと厳しいだろうけど。
この世界で、自分の体で、葵として努力できているだけで充足感に満たされる。
ライトだった頃は、どれだけ大きなことを成し遂げ人々に囲まれても、どこか他人事のように感じていた。全てはライトがそれまで培ったものの上に成り立っていたからだ。
今は違う。俺は俺として一歩を踏み出した。
「ここいい?」
一つ後輩の同級生が、向かいの席の椅子を引いた。俺の返事を待たずカレーをテーブルに置き、座る。クラスのお調子者、木場だ。
カレーには目も向けず、携帯の画面をスクロールしている。
「なあ、今週の土曜にS女の子と合コンするんだけど、天川も来る?」
「いや、俺はいい」
「何で? S女だよ。S女」
何度も言わなくても聞こえている。
S女は有名なお嬢様学校だったところだが、二年前に共学になった。しかし今でも昔の名残でS女と呼ばれ、男たちの憧れの学校だ。
「何か用事でもあんの?」
木場はやっとカレーに手をつけた。
ルーと白米を最初に混ぜるタイプだ。やめろ。
「いや。今は恋愛どころじゃない」
「まあ、教職も取ってるし忙しいか。あ、そうだ! 天川って、黒石王理と同じ学校だったってマジ?」
「ああ。一瞬だけ一緒にサッカーしてたよ」
木場はこうやって次から次へと話題を変える癖がある。
カレーが辛いのか、水を一気飲みして空になったコップを置いた。
「え、スゲー! 黒石がサッカー日本代表に選ばれたって見た?」
「見たよ。すごいよな」
「マジスゲーよ。同年代で日本背負うって考えられない」
そんなすごい奴に嫉妬して、劣等感を抱いていた中学時代の自分が可笑しい。
完全に吹っ切れた今は、テレビを見ながら素直に「おめでとう」と言えた。
俺が消えたあと、異世界でサッカーはどうなっただろう。あのまま立ち消えになってないことを祈るばかりだ。
木場はカレーに集中している。この暑いのにカレーなんて頼むから冷房が効いているのに、額に汗が滲んでいる。
俺は自分のコップと、木場のコップを持ってサーバーへと向かった。
「サンキュー」と後ろから特大の声が聞こえた。
恥ずかしいから止めてくれ。
水を入れながら、黒石と重なるリオンの顔を思い浮かべた。
すぐにそれがライトへと変わる。
公爵家の一人息子で、家柄だけでなく容姿や能力にも恵まれた男。
ライトが俺を異世界への渦に巻き込んだのは疑いようがない。
しかし、魔女は俺のこをこう称した。
『異世界から来たもう一人のライト』
つまり俺とライトは同じ器だということ。
だとすればライトにここまでの渦を作り出すことはできない。
俺はそう確信を持っていた。
ライトが作り出した渦の外側に、もっと大きな渦が蠢いている。
ライトは気づかぬうちにその大渦に飲み込まれていただけだ。俺と同じように。
そして、魔女ですらその装置の一部にすぎない。
異世界から戻って以来、ずっと頭にこびりついた声がある。
『奪ってしまえ』
ライトの部屋で見た絵画の、赤い瞳の王が俺を見つめる。
分かっているのは、ただ一つ。俺があの世界に行くことはもう二度とないということ。
テーブルに戻りカップを置くなり、木場が歯を見せた。
「サンキュー。お礼にS女との合コン、天川も参加にしといたから」
「は? おい。俺は行かないって」
「人生は一期一会。どこにチャンスがあるか分からない。心理学科なんだからさ、色んな人間に会って色んな経験した方がいいって。じゃないと、全部の答えが教科書にあると思い込んでいる、頭でっかちなカウンセラーになっちゃうぞ」
木場は俺の汲んだ水を全部飲み干し、両手を合わせた。米粒を一つも残さず、綺麗に完食している。
そう言えば、こいつにはスクールカウンセラーを目指していると話したな。
木場の言う事も一理ある。
「それもそうだな」
「だろ。絶対、いい出会いがあるって。なんたってS女だから。ということで土曜日宜しく」
木場がトレーを持って立ち上がった。忙しない奴だ。
うまく話にのせられた気がしないでもないが、学外の知り合いはいないし、刺激を貰えるいい機会かもしれない。
S女云々はどうでもいいが。
異世界ではあんなに顔が広かったのにな。
『その一、人脈の大切さについて』
テンダー先生の教えを忘れるところだった。異世界で学んだことは、こっちの世界でも役立つ。
馬鹿みたいに頑張ったんだ。無駄にするな。




