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奪ってしまえ!  作者: 松原水仙
第五章

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28.元の世界

自室でキリアの淹れた紅茶を飲む。ワイン入りだ。寝つきがよくなるというそれを、最後まで飲み干す。お腹が温まるのが分かった。


え?


急に眠気に襲われ、ティーカップが手から滑り落ちた。


ワインのせいかと思ったが、瞼の重さが異様だ。

体が勝手にソファに沈んでいく。


しまったと思ってももう遅い。


横にいたキリアは慌てる様子もなく、俺を見下ろしている。

シャンデリアを背にして逆光になっているため、俺からキリアの表情は確認できない。


「お、まえ」

「すみません、ライト様」


淡々とした声だ。

キリアはどこかへ消え、すぐに戻ってきた。

人影が三人に増えているが、ぼやけた目には黒い輪郭が揺れるだけだ。


「ベッドまで運んでいただいても宜しいですか?」

「ああ」


その声は――リオン! もう一人は誰だ?


リオンに横抱きされるが、抵抗できない。運ばれる間も、腕がだらしなく垂れるだけだった。

呆気なくベッドに寝かされる。


「へえ、これが異世界から来たもう一人のライトなの。可愛いわね」


色気のある声には聞き覚えがある。女優のダッジ・ネルバだ。

俺の顔を覗き込んでいる気配がする。


「おい、それ以上ライトに近づくな」

「何よ、ケチ」

「男なら幾らでも紹介してやっているだろう」


リオンに牽制され、ダッジの顔が離れた。

リオンが俺の背を支えながら、口移しに何かを飲ませる。液体が喉まで流れ込んできた。

血の味だ。


や、めろ。

パー、ル、逃、げ……。


「ああ、最高の魔術日和ね! 見てよ、あの赤黒い月」


耳を塞がれたように、ダッジの声がどんどん遠くなる。

そこで俺の意識は消え去った。




俺が目を開けると、真っ白な天井が目に入った。

働かない頭で、ぐるりと見回す。


「葵っ」


すぐ横で発せられた悲鳴のような声に、俺の体が大きく跳ねた。

椅子から飛び上がるように立ち上がったのは母だ。隣には父の姿もあった。

無意識に上半身を起こして、食い入るように二人を見る。


二度と会えないと思っていたのに。


「母さん……。父さんも」

「その呼び方、いつもの葵ね! ずっと別人のようだったから、どうしようかと。ああ、良かった」

「体調はどうだ? 気分は」


母が抱きついてきた。父も安堵の表情で俺を見下ろしている。

両親にも相当心労をかけてしまったようだ。


俺は自分の手を眺めた。

肌の色も不格好な手の指も、俺のものだ。


「俺、生きている」

「当たり前じゃない。何言っているの。しっかりして」

「生きている……」


安心したせいで脱力して、シーツに頭を埋めた。


「葵、ごめんね。お母さん、アリサって子をあなたの恋人だと思いこんで」

「アリサ?」


ぶわりと鳥肌が腕に広がった。


「そいつに階段から突き落とされたんだ。今どこにいる」


母が顔を引きつらせる。


「本当なの? 彼女に突き落とされたって」

「本当だ。早く警察に」

「彼女は亡くなった」


父の言葉に耳を疑った。

俺は「え?」と消え入るような声で問い返す。


「お前が記憶喪失なのをいいことに、彼女はお前の恋人として看病に来てたんだが、一昨日の夜に病室から転落した。どうやら自殺らしい」

「……自殺って」

「警察は葵のことも疑っていたのよ。信じられないわ。葵は被害者なのに」

「それって、殺人の可能性もあるってこと?」


動悸が激しくなる。


「心配するな。防犯カメラに彼女が自分で窓枠に座るところが映っていた。そのまま後ろに倒れて地面に墜落したんだ。その後すぐにお前も映っていたが、助けようとしたんだろう。不審な点もないし、彼女がお前のストーカーをしていたことを知って警察も自殺だろうと話していた。ストーカーの中には当てつけに自殺をする奴もいるらしい」


本当に自殺なのか……。

彼女は当てつけに自殺をするようなタイプではない。

俺を殺そうとした女だ。


俺は骨から体が冷たくなるのを感じた。


まさかとは思うが、ライトならやりかねない。

殺したのか、アリサを。

俺の体を使って。


ライトがアリサを殺すとすれば、彼女に迫られた時だろう。


体を摩る俺に、母が心配そうな目を向ける。


「葵。あなたが責任を感じることはないわ。階段から突き落とされたなんて、知っていたら病室に入れたりしなかったのに、ごめんね」

「母さんのせいじゃないよ」

「それで、一応警察が話を聞きたいって言うの。記憶がないって伝えてはいるから、何も分からないって答えればいいわ」


母の言う通り、警察の調査は形式的なものだった。階段から突き落とされたことを伝えると、警察はすぐに自殺だと結論付けた。


アリサの件で感情がぐちゃぐちゃになり、両親との再会に浸る間もなかった。頭が追い付かない。


確かなことは、俺が元の世界に戻ってきたことだ。



全てが落ち着いた頃、俺は気分転換に車を海へと走らせた。


砂浜を一人歩く。

春先の海は、まだ寒い。風が長袖を通過して肌に触れる度、凍えそうになった。

それでも波は穏やかだ。

深い青がどこまでも続いている。


水平線に太陽が沈んでいく。


海の先を辿っても、パールはどこにもいない。我が子にも二度と会えない。

この世界に二人は存在しない。


砂浜に座り込み、電子タバコに火をつけた。


大きな感情が渦巻いているのに、泣くこともできなかった。

全てが遠く感じて、どこか夢を見ていたような気分にもなる。

触れた感触も残っていない。ただ記憶があるだけだ。


「パール」


呼び掛けた声は風がさらって行った。


ライトの思惑は完全に阻止できただろうか。

不安は募るが、あとは信じて祈るしかない。

彼女と俺は同じ世界を生きていないのだから。


きっと大丈夫だ。

俺ができる限りのことは、やった。

信じろ。

パールは一人じゃない。ドットを始め、たくさんの人たちが彼女を守ってくれるはずだ。


夕陽を浴びながら海辺に背を向けると、パールが隣にいるような気になって少しだけ涙が滲んだ。



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