2.存在否定
少年キリアの説明によると、ここはブルキア王国で、ライトはウィリアム公爵家の一人息子だという。
王族の血を引いており、父は宰相、母は社交界の中心人物らしい。
それを聞いた時は、安堵感から泣きそうになった。異世界に一人放り込まれた俺に、こんなに心強い味方はいない。
しかし、俺はすぐにそれがぬか喜びだと思い知った。
ライトの両親と食事をともにするのはこれで五度目だ。母が不自然なほど明るい声で、社交界での出来事を話している。父がワインを飲みながら、母に相槌を打った。
執事が運んできたのは、バゲット、野菜の盛り合わせ、牛の赤ワイン煮、白身魚のポワレ、卵スープ、白カビのチーズ、フルーツの盛り合わせ。
「ライト、沢山食べるのよ。大事な我が家の跡取りなのだから」
「そうだぞ。食事は大切だ。愛する私たちの息子が貧弱では困る」
正体を打ち明けたはずなのに、両親は完全に俺をライトとして扱っている。それが彼らが望む形なのだ。俺の話は全く聞いてもらえない。
「あの、俺の話を」
「ライト! お料理が冷めちゃうわよ」
「俺はライトじゃ」
「そうだ! 新しいワインを開けましょうか。とっておきのがあるのよ」
こんな風ににこやかに遮られてしまう。口にするなという圧力が言葉に滲み出ていて、とてもじゃないが相談できる雰囲気ではない。
「ライト。どうした? まずは前菜からだろう?」
バゲットを千切った俺に、父親がにこやかに促す。
好きに食わせてくれよ。
喉まで出た言葉を飲み込み、俺はバゲットをお皿に戻した。
トマトをナイフで切ると、上下に割ったトマトの間にクリーミーなポテトが入っている。美味しいはずなのに味がしなかった。
「ライト、勉強はどうだ?」
「問題ありません」
「政治では派閥の理解もいる。現状の把握も忘れるな。新聞は全社取り寄せているから、毎日目を通せ」
「はい」
ようやく口にしたバゲットは固く、慣れない。俺が食べていたのは柔らかい食パンだ。
本物の母親が作ってくれた金平ごぼうが食いたい。醤油と砂糖で味付けした、ひき肉入りのやつだ。
あとは豆腐の味噌汁に、炊き立ての白飯があれば完璧だ。
熱々のご飯と、甘辛い金平ごぼうをかきこむ想像をして、ごくり、と喉がなった。
「どうした、ライト。手が止まっているぞ。このチーズはお前の好物だろう?」
「そうだね。熟成具合がいい」
嘘だ。こんな臭いチーズ食えたもんじゃない。
チーズを血のようなワインで流し込んだ。酸味が口に広がる。
水が飲みたくなった。
元の世界に帰りたい。
母さん――。
『葵。お惣菜の作り置き、冷蔵庫に入れておくからね』
『外食するからいらないって』
『お母さん帰るけど、体には気をつけてね。大学の勉強頑張って』
『はい、はい』
帰り際、母はどんな顔をしていた? スマホをいじっていたから記憶にない。
俺がいなくなって、父と母はどうしているだろうか。
もっと話をしておけば良かった。
今になって押し寄せる後悔に、俺はナイフとフォークを置いた。
半分以上、残っている。牛の赤ワイン煮に至っては一切手をつけていないが、慣れない料理と環境に食欲が全く湧かない。
「勉強があるから先に戻る」とダイニングを出た。
部屋には戻らず、ドア越しに両親の会話に耳を澄ませる。彼らはいつも俺がいなくなったあとに俺の話を始めるのだ。
不審そうな顔をしたメイドに、俺は人差し指を口元に当てて微笑みかけた。
頬を赤く染めた彼女がこくりと頷き去って行く。こういう時、美形は便利だ。
俺が耳をそばだてていると、案の定二人は話し始めた。キリアの声も混じっている。
「キリア、ライトは大丈夫なんでしょうね?」
「頭の良い方ですから問題ございません」
「あんなに優秀な良い子だったのに……。どうしてこんなことに」
「やはり例の事件が相当ショックだったのだろう」
父親の言葉に場が静まり返る。空気がピンと冷たく張りつめたのがドア越しでも分かった。
例の事件って何だ?
思わず目線をドアに這わせた後、俺は再度耳をドアに寄せた。
キリアの神妙な声が聞こえてくる。
「ライト様はお優しいですから、耐えきれずに別の人格を作り出してしまったのでしょう」
「何てこと! こんなことが知られたら我が家は終わりよ」
「周囲には絶対に知られるわけにはいかん。特にブライト家にはな。結婚式を目前にして婚約破棄なんてされたら我が家の恥だ。キリア。一カ月であいつを完璧にライトに仕上げろ。間違っても異世界だなんだと馬鹿な発言をさせるなよ」
「承知しました」
執事がワインを運んで来たらしく、話題はワインに移ってしまった。
何食わぬ顔をしたキリアがハーブティーのセットを持って俺の部屋に入ってきた。
俺は歴史の教科書から目を移し、キリアに向かいに座るようソファを手で示す。
キリアはハーブティーを淹れる手を止め、空のカップとソファを見比べてから大人しく座った。
「例の事件って何のことだ?」
「……聞いていたのですか?」
「飲み物を貰おうと戻ったら、話し込んでいて入れなかったんだ」
キリアの目線が横を向いた。言うべきか迷っているようだ。従者としては優秀だが表情管理はまだまだらしい。
「で、例の事件って?」
俺が促すと、迷った挙句、キリアが口を開いた。視線は床の絨毯に落ちたままだ。
「ライト様の幼馴染であるサンドラ様が連続殺人鬼の被害にあってお亡くなりになったのです」
「連続殺人鬼って、新聞で話題の?」
「はい。ライト様は彼女のことを実の妹のように可愛がっておいででしたから、落ち込みも相当で」
俺はサイドテーブルに置かれた新聞に目をやる。王都で起きている連続殺人鬼は連日のトップ記事だ。
被害者は全員娼婦だったが、一人だけ運悪く娼婦と間違えられて殺されたと記事にあった。まさかそれがライトの幼馴染だったとは。
すでに四名の被害者が出ているものの、容疑者すら絞り込めていないという。
「そのショックでライトが消えて、異世界から俺が来た……?」
独り言のように呟いた俺に、キリアは何か言いたげな視線だけを寄こした。
キリアも両親同様に俺が異世界から来たことを信じていない。頭がおかしくなったと思っているのだ。
俺は教科書をソファの上に置いて、正面から彼を見る。
「俺は本当に異世界から来たんだ。元の世界で俺は大学生で、卒業後は父の工場を継ぐはずだった」
「ライト様。その件ですが、異世界については屋敷内においても発言をお控えください」
表情のない精巧な人形のようになったキリアと向き合いながら、俺は祈るように手を組み合わせた。キリアだけでもいいから信じて欲しい。
「状況の説明をしているだけだ。これを信じて貰えないと話が先に進まない」
「私はライト様の為に言っています。一度レッテルを貼られると取れないのですよ」
「頭がおかしいっていうレッテルか?」
俺は自虐するように口の端を上げた。
キリアの青い宝石のような瞳がじっと俺を覗く。彼は肯定も否定もせず俺に委ねただけだった。
「ハーブティーでも飲んで落ち着いてください」
キリアは会話を打ち切り、立ち上がってハーブティーを用意し始めた。。
「どうぞ」
俺はティーカップを持ち上げ、口をつけた。ハーブティーはすでに温くなっていたが、ミントの清涼感がそれを誤魔化した。
「ライト様。ティーカップの持ち手に指は入れないように」
「そうだったな」
「マナーと同じです。一度でもミスをするとそういう人だと決めつけられてしまう」
俺だってキリアの言いたいことは理解しているし、きっと彼が正解だ。上手く振る舞わないと損をするのは俺だ。彼はそれを危惧してくれている。
しかし、異世界で他人の体に乗り移って、常人のように振る舞うなんて無理だ。
化け物にでもなった気分だ。言い知れない不安や恐怖を胸の内に押しとどめることができない。誰でもいいから縋りつきたい。
今だって何かをしていないと足が震えそうだ。
爆発しそうな俺に追い打ちをかけるように、キリアが言い放つ。
「あまり変なことを仰ると精神棟に入れられる可能性があります。旦那様も奥様もそれを懸念されているのです」
「精神棟?」
「気が触れたと判断された人たちが収容される場所です」
言いにくそうに口にしたキリアに、俺は息が止まりそうになった。
冗談じゃない。俺はまともだ。
おかしいのはこの世界の方だ!
「なら、俺を元の世界に帰してくれよ」
「ライト様。お気を確かに。元の世界など存在しないのです。あなたはライト・ウィリアム様その人なのですから。サンドラ様の事件については国が動くようです。犯人逮捕も時間の問題でしょう。そうなればライト様の御心も少しは晴れるでしょう」
どうやら俺はすでにレッテルを貼られてしまったらしい。キリアの同情するような生温かい目に、俺は説得を諦めた。
冷めきったハーブティーをテーブルに置いて、俺は教科書を手に取った。
「勉強するから出ていってくれ」
完全にキリアを視界からシャットアウトし、教科書の文字を目でなぞる。日本語ではないのに、頭にすらすら入ってくる。王位継承争い、戦争、飢饉、疫病、どの世界でも人間はこういった問題から逃れられない。
「私はいつでもあなた様の味方ですから、何かございましたら何なりとお申し付けください。こちらはご婚約者のパール様からのお手紙です」
キリアがそう言い残してドアを閉めた。目の前にあったティーカップは下げられ、新しいティーポットとカップがサイドテーブルに置いてある。その隣には、馬の封蝋が押された手紙が添えられていた。
俺が漫画の主人公なら、自分の足でここを抜け出したに違いない。
でも俺にはそんな勇気はなかった。
この国のルールも碌に分からないし、そもそも俺に一人で生きていけるような能力なんてない。
俺は手紙を手に取った。ラベンダーの香りが微かにする。
ナイフで封蝋を丁寧に剥がすと、バランスの良い美麗な文字が目に入る。
『辛い時は私がいつも味方でいることを思い出してね パールより』
彼女は俺に言ったわけじゃないのに、涙が込み上げてきた。
誠実な言葉に飢えていたのだと思い知る。
会ったこともない婚約者の手紙を胸に抱き、俺は子どものようにソファに蹲った。




