1.異世界転移
『奪ってしまえ』
脳内で響いた声が霧散し、俺はゆっくりと瞼を上げた。
目を覚ますと、視界には天国が広がっていた。
突き抜けるような青空の下で楽器を持った天使たちが舞っている。彼らの足元にある入道雲が、俺と天使たちを隔てていた。
手を伸ばしかけたその時、右手側に人の気配を感じた。
飛び上がるように反対側に仰け反り、反射的に顔を庇う。驚きすぎて声を出す余裕もなかった。
恐る恐る手の間から確認すると、すぐ近くで中学生くらいの少年が静かにこちらを見下ろしている。
黒髪に青い目の整った顔立ちをした少年は、蝶ネクタイにハーフパンツと、まるで小学生のピアノの発表会のような服装をしている。
誰だ?
「おはようございます。今日はいつもより遅いお目覚めですね」
少年はサイドテーブルの前に立ち、ティーポッドの中身をカップに注ぎ始めた。
いつもより?
そこで俺はようやく自分がベッドに寝ていることに気づく。天国だと思ったのは天井一面に描かれた絵画だった。
慌てて上半身を起こし、目を擦った。
起きる寸前に何かを言われた気がしたが、何も思い出せない。
「ライト様。昨夜は寝酒でもなさっていたのですか?」
「ライト? 誰のことだ」
「まだ酔いが残っているようですね。ハーブティーでも飲んで目を覚ましてください」
少年が呆れた声を出しながら、サイドテーブルの上のティーカップを俺の方に寄せた。
サファイア色のカーテンに覆われた縦長の窓に、同色の丸テーブルと椅子、落ちてきそうに重量感のあるシャンデリア。
目に飛び込んでくるのはどれも精巧な細工が施された高そうなものばかりだ。
洋画でよく見る大きな暖炉まである。
「ここどこ?」
西洋風のお城のような部屋には見覚えがなく、必死に前日の記憶を辿るが靄が掛かって何も思い出せない。
目を忙しなく上下左右に動かすと、窓と反対側にある壁一面の絵画が目に留まった。
王冠をつけた男性が軍の先頭で勇ましく拳を突き上げている。
躍動感のある馬と、男性の赤い瞳が印象的だ。
光と影のコントラストが美しいその作品は、有名画家のものに違いない。今にも動き出しそうな迫力に飲み込まれそうになり、目を逸らす。
立ち上がってみると、少年は百七十五センチの俺より二十センチほど背が低かった。
「まだ寝ぼけているのですか? ライト様、あなたの自室ですよ」
「は? いや、俺はライトじゃないし」
さっきから話が噛み合わない。
やけに優雅な仕草と人形のような顔が恐くなり、ドアへと後ずさった。少年は作り物めいていて、まるで現実感がない。
ドアノブを握ると後ろから慌てた声が俺を止めた。
「お待ちください! その恰好で外に出てはいけません」
そこでやっと自分がシルクのガウン一枚の姿であることを認識する。
……確かに。これでは変質者だ。
それに鞄や携帯もない。
「お召し物はこちらにご用意してございます。どうぞ」
少年は金色の衣装ラックを引いて鏡台前に移動させた。見覚えのない高価な衣服が並んでいる。
「俺が着ていた服は?」
「そちらが本日のお召し物です」
「…………」
少年はプログラムされた言葉だけを話しているかのようだ。不自然な会話が続く。
しかし、さすがにガウン一枚では逃げられない。
それに相手は少年だ。いざという時はねじ伏せられると踏んで、俺は部屋に戻った。
俺が衣装ラックに近づくと、少年が急に俺のガウンの紐を解き始めた。肌が露わになりそうなところを寸でで押さえる。
「何すんだっ」
「何って、お着替えをさせていただこうと」
少年はパチッと大きく瞬きをして、俺を見上げる。
その視線から逃れるように、俺は顔を逸らした。
「着替えくらい自分ででき……」
鏡台が目に入った瞬間、俺の心臓が停止した。
鏡に映った自分の顔が、全く知らない男の顔だったのだ。
血の気が引いた状態で、鏡の中の男と目を合わる。
艶々のプラチナの髪に、海のように青い瞳の男が、引きつった顔で俺を凝視していた。
鏡の中にいる男はガウンを両手で押さえている。俺と同じ動作だ。
俺が右手で顔を触ると、鏡の中の男も全く同じ動きをする。口を押さえると、男も押さえる。どんな動きにも寸分の遅れなく対応してくるではないか。
じんわりと、体に嫌な汗が滲むのがわかった。
「ライト様?」
「これは、誰だ?」
絞り出した声は枯れていた。
さっきまで聞こえていた鳥の鳴き声が急に聞こえなくなり、込み上げる恐怖に抗うよう自身を抱きしめた。
目の焦点が定まらないせいで眩暈がする。
そうか、特殊メイクか!
俺は大きな息を吐いて、首筋の汗をぬぐった。
焦った。
無意識に呼吸を止めていたせいで、息苦しさから体が酸素を求めている。何度か肩を上下させるように呼吸をし、少年を睨みつけた。
「何の真似だ」
「何がでしょう?」
少年は眉根を寄せ、困惑した表情で見上げてくる。
「ライト様。さてはパール伯爵令嬢とのデートのあと、リオン様にたくさん飲まされましたね? あの方はお強いですから」
少年は大袈裟にため息を吐き、衣装ラックに手を掛けた。
「さ、お着替えを」
俺はこのごっこ遊びにも恐怖を感じ始めていた。
他人にこんな上等な服をわざわざ着せるだろうか。それに特殊メイクにしては肌になじみ過ぎている。手で触っても全く違和感がない。
ドッドッという胸の音は速さを増すばかりだ。
少年の青い目に、ヨーロッパの貴族のような部屋。
まさか外国?
いや、落ち着け。彼は日本語を喋っているじゃないか。
自分に言い聞かせるが、それでも脳裏には『人身売買』の四文字が浮かんでいる。
連れ去られて整形させられたんじゃないか。
その時に変な薬でも嗅がされたから記憶が飛んでいるのでは?
「ライト様?」
鏡を見て固まった俺に、少年が首を傾げる。
少年が油断しているのを確認し、俺は全速力で駆け出した。
「ライト様! まだお着替えが」
少年の叫び声を無視して、部屋を出た。ガウン一枚でも構っていられない。
掃除をしていたメイド服の女性たちが一斉に俺を振り返り、「きゃっ」と短い悲鳴を上げた。
彼女たちは金髪に赤毛。顔立ちからしても日本人ではない。
早く逃げなくては。
ごくりと唾を飲み込んだ。
俺は赤い絨毯が敷かれた廊下を走り抜けながら、ガウンの紐を結び合わせた。
木製の手すりのついた螺旋階段を、眩暈を覚えながら駆け下りる。幸い、足音は絨毯が吸ってくれた。
二段飛ばしで進むが、いつまで経っても下に辿り着かない。
まるでエッシャーの不思議絵の中に迷い込んだかのようだ。同じ景色が続き、走れど走れど同じ場所を回っている感覚になる。
どうなってんだよ!
壁に手をついて息を整えていると、頭上から声がした。
「ライト様っ! お待ちください」
少年だ。螺旋階段の上から追いかけてくる。冗談じゃない。誰が待つか。俺は荒い息のまま、階段をくるくると回り続けた。
玄関だ!
廊下にいる複数人の姿が目の端に映った。皆、執事やメイドのような服を着ている。
呼び止められる前に両開きの玄関ドアの、金のドアノブを両手で開いた。
息を切らしながら外に出ると、生け垣の余分な葉を庭師が刈り取っているところだった。遠くで木の形を整えている者たちも含め二十名ほどが作業をしている。
「ライト様、どうしたのです。その恰好は」
梯子に乗った白い顎髭の庭師が無表情に俺を見た。目鼻立ちがはっきりとして、やはり日本人ではない。
手に持った大きな剪定鋏が反射して光った。
やめろ! なぜ皆、俺を「ライト」と呼ぶんだ?
俺の名前は天川葵だ!
俺は顔を逸らして、彼らを背に再び疾走した。
中学校の運動場よりずっと広大な敷地には、多彩な植物が左右対称に植えられている。誰もが感嘆の息を漏らす芸術にも目をくれず、俺は足を回し続けた。
「ライト様!」
追いかけてきた少年は玄関に着いたところだ。
庭園の真ん中にある噴水まで辿り着いた俺には、追い付けない。
ああ、やっとこの不気味な屋敷から解放される。
俺は全長百メートルほどの城のような建物を見上げた。どうりで階段が終わらないわけだ。あんな場所に閉じ込められていたらと思うと、ゾッとする。
門に辿り着いた俺が安堵の息をついた瞬間、整備された石畳の道の上を豪華な馬車が通り過ぎた。
血の気が引いて、体の平衡感覚がうまく掴めない。
四匹の馬の蹄や、車輪の音がやたらと大きく響く。
俺はまだこの異様な世界から逃れられていないのか?
うずくまりそうになるのを堪え、とにかく馬車とは反対に向かった。心臓が早いのは走ったせいか、状況のせいか分からない。
橋を渡ると視線の先には城のような洋館が幾つも並んでいる。もしここがヨーロッパなら、馬車は雰囲気づくりのアイテムかもしれない。
一縷の希望を胸に、適当な屋敷の門番を見つけて助けを求めた。
「助けてくれ!」
「ライト伯爵。どうされたのです? そんなお姿で」
ぶわっと腕に鳥肌が立った。
こいつも俺をライトと呼ぶのか!
ブリキのおもちゃの兵隊のような服を着た門番の男が、脱力した俺の肩に手を置いた。その拍子に男の腰にある剣に気づき、倒れ込むように尻もちをつく。
「ライト伯爵!」
もう一人の門番が家人を呼び、異変に気付いた隣の屋敷の門番も寄ってくる。
わらわらと屈強な外国人に囲まれ頭がショートした俺は、その場で気を失った。
目覚めると元の屋敷にいて、少年――キリアというらしい――の説明から、ここが異世界であることを三日かけてようやく理解した。
可視化できない大きな渦に、無力な俺は一瞬で飲み込まれたのだった。




