11.オペラデート
混み合う劇場を二階から見下ろしながら、俺はパールと舞台から斜め前方にあるボックス席へと入った。完売必至の人気のオペラだが、公爵家の力をもってすればチケットを手に入れるのは難しくなかった。
ライトとして生きていくと決めた以上、婚約者であるパールと会うのを避けている場合ではない。
この世界に来て、彼女がいなければとっくに心が折れていた。彼女だけは何があっても幸せにしたい。
そのためにも必ず今日のデートを成功させる。
パールとの初デート選んだのは、最小限の会話で済むオペラだ。
幾ら手紙のやり取りを毎日交わしていても、会話のテンポや雰囲気までは分からない。
探り探りで距離を掴んでいく必要があった。
ボックス席には赤いベロア生地のゆったりとした椅子が二脚並んでいる。公爵家の為の特別シートだ。
座り終えると同時に、俺たちに気づいた一階席の観客たちが黄色い悲鳴を上げた。ライトとパールは令嬢たちの憧れのカップルだったのだろう。
美男美女で上流階級。加えて人当たりもいいとくれば、嫉妬心すら抱けないよな。
パールは注目を集めるのに慣れている様子で、一階席のざわめきなど気にも留めず、上機嫌でレースの手袋をはずしている。発光するような白い手が露わになった。
初めて目にする彼女は想像以上に美しく、比喩ではなく、本当に彼女の周りだけ光が降り注いでいるようだった。シックな黒のドレスを着用していても蝶のような華やかさがある。
内面の美しさがそのまま容姿に現われている。
俺は緊張を誤魔化すように、懐中時計を取り出した。開演まで、まだ少し時間がある。
俺が懐中時計を胸に仕舞うと、パールが上半身をこちらに向けた。後れ毛を髪に掛けながら微笑む彼女から、花のような香りが漂ってくる。
「楽しみね! とっても人気の作品で気になっていたの。誘ってくれてありがとう」
「手紙でパールが見たいって言っていたからね」
「そうなの。いつでも泣けるようにハンカチを二枚持って来たわ」
「そんなに?」
俺はパンフレットで内容を確認する。
☆☆☆
『メリッサ』
メリッサとジャックは恋人同士。
しかしある日、二人の仲の良さに嫉妬した女神が、ジャックと、彼の親友イーサンの中身を入れ替えてしまった。
メリッサはそれに気づかず、ジャックの姿をしたイーサンと愛し合う。
絶望したジャックは自らの喉を裂いて死んでしまい――?
互いを愛するが故の悲劇の物語。
メリッサ役:ダッジ・ネルバ
ジャック役:ジョージ・ヘブン
☆☆☆
苦笑しながら俺は頬杖をついた。
内容を見る限り憂鬱な気分にはなれそうだ。オペラは悲劇が多いと聞くが、正直なところ苦手だった。
何より、この内容は俺とパールが置かれた状況そのもので、胸がざわつく。
タイムリーなオペラに片眼を細めながら、パンフレットを畳んで胸ポケットに仕舞った。
パールは待ち遠しそうに、舞台を眺めながらオペラの説明をしてくれる。
「劇中の歌唱が圧巻なのですって。ジャックの悲哀や喪失感、メリッサの自責の念が歌から溢れ出して、涙なしでは見られないらしいわ」
「へえ」
「あ、その顔は興味ないわね?」
「あるよ。パールの興味のあることなら何でも。そんなにはしゃぐ君が見られて嬉しいよ」
「私がはしゃいでいる一番の理由は、オペラじゃなくて」
パールが言葉を区切って俺を見上げた。「わかるでしょ?」という声が聞こえてきそうだ。
彼女の真剣な表情にドキッと胸が高鳴る。
俺が異世界から来たせいで、パールからすれば恋人と会えない状態が一カ月も続いたのだ。言わんとしていることは明白だった。
「寂しい思いをさせてごめん。これからは、もっと会えるから」
「本当?」
「約束していたカフェに行こう。話したいことが山ほどあるんだ」
「私もよ。毎日あなたのことを考えていたわ」
「手紙ありがとう。すごく支えになった」
不意に響き渡ったオーケストラの生演奏が俺たちの会話を遮った。
いつの間にか楽団が舞台の前で準備を整えていたらしい。序曲の音につられて会場の話し声が消えていく。
パールはすでに舞台に夢中になっている。
助かったような、残念なような。
オーケストラの演奏が終わると、いよいよオペラの幕が開く。一斉に拍手が起こり、会場が一つになった。
途中、暗闇に乗じてパールが手を握ってきた。それだけで顔が火照ってしまう。暗くて助かった。
指と指を絡め合う。
ずっと触れていたいほど柔らかくて吸い付くような手だ。目は舞台の演者たちを追っているのに、俺の意識は完全にパールに向いていた。
女神がジャックとイーサンを入れ替えたところで舞台の幕が下り、休憩に入った。
パールとともにボックス席を出て、シャンデリアの下で他の貴族たちと挨拶を交わす。さながら晩餐会のようだが、若い世代ばかりだ。
堅苦しい挨拶もない。
令嬢たちの集団が、パールを見つけ声を掛けてきた。友人のようだ。
俺は軽く挨拶を済ませ、その場から少し離れた。
パールは彼女たちと会話を続けている。
「これから待ち受ける悲劇を思うと、今から胸が痛いわ」
「あなたがメリッサならジャックとイーサン、どちらを選ぶ?」
「ジャックに決まっているわ」
令嬢たちは感情のままに声に出す。楽しそうなパールの姿に、俺の口も緩んだ。
パールを見守るように壁際に立った俺は、視線に気づき横を振り向いた。
知的さと美貌を兼ね備えた彼女が、俺に微笑みかけている。赤いドレスに身を包み、片側に流したオレンジ色の長い髪が印象的だ。
ドキッ胸が鳴った。
目を逸らそうとしないのは女性が男性を誘う時の合図だ。彼女は俺に声を掛けてと言っている。
俺は曖昧に笑って誤魔化し、パールを迎えに行った。
魅力的な女性ではあったがパールに誤解されたくない。
「パール、そろそろ戻ろうか」
パールは名残惜しそうに友人に手を振った。
良かった、見られてはいなかったようだ。
俺はパールの肩を抱いて、席へと戻った。
休憩を終え、再び劇場の幕が上がる。
オペラはいよいよクライマックスだ。
ジャックとイーサンを入れ替えたことを、女神がメリッサに告げた。
メリッサ役のダッジ・ネルバが、舞台の前方に進み出て天へと腕を伸ばす。
愛する人が入れ替わっていたという事実に気づいた時には、彼はもう死んでいたというシーン。
「ああ、愚かな私 あなたに気づかないなんて 瞳の光 声の音色 こんなに違う ああ、愚かな私」
体の芯が響くほどの声量だ。自らの罪を嘆く彼女の苦悶が歌声から伝わってくる。
メリッサは自らの胸に剣を突き刺し、命を絶った。
彼女の絶望を表すように舞台が暗転する。
二つの棺が舞台の中央に現われた。教会のステンドグラスの光に照らされている。
司祭がアイビーの葉で作った王冠を片手に登場した。
メリッサとジャックの亡骸にその王冠を添え、客席を向く。
「アイビーの花言葉は『永遠の愛』。二人の愛を邪魔する者はもういません。神の元で二人の愛は永遠になりました」
司祭の祈りにより、オペラは幕を閉じた。
一拍を置いてスタンディングオベーションが起こり、吹き抜けの天井を突き破りそうな音が響く。興味がなかった俺でも引き込まれるほどの歌声だったので当然の反応だ。
歓声と啜り泣きの声が至る所から聞こえる。
パールはハンカチで目元を覆っている。
一階からの多数の視線に気づき、俺はカーテンを閉めた。四方にある蝋燭のおかげでパールの表情は確認できる。
「大丈夫?」
俺が親指で彼女の涙を拭うと、パールは眉を下げて悲し気に目を細めた。
「とても胸が痛いわ。メリッサとジャックはあんなに愛し合っていたのに、こんな結末になるなんて」
「女神が教えなければ、メリッサだけでもイーサンと幸せに暮らせたはずなのにね」
「何を言うの! メリッサは最後にはジャックと永遠の愛を誓えたのよ。あのままイーサンと一緒にいたらもっと辛くなっていたわ。だってメリッサが愛しているのはジャックだけだもの」
力説するパールに、俺は視線を落とした。
俺は所詮偽物で、本物のライトになどなれる訳がないと言われた気がしたのだ。
どうもイーサンに自分を重ねすぎている。ジャックと入れ替わったイーサンはこの物語においては完全な脇役か、さもなければ悪役だ。
彼だって立派な被害者なのに。
「それに、女神が教えなくても運命がきっと彼女に告げたはずだわ。本物の彼が誰かって」
運命、ね。
もし運命とやらがパールに、俺がライトじゃないことを伝えたら……。
俺とライトが入れ替わっていることに気づいたら、パールもメリッサのように自分を責めるのだろか。
「私の運命の相手はあなたよ、ライト。お願いだから、ジャックのように勝手にいなくならないでね」
パールが俺のジャケットの裾を小さく握った。
俺はパールの手を取り、細い指先にキスを落とした。
「心配いらないよ、パール」
「ライト」
パールが俺の胸に顔を寄せ、背に手を回してきた。
俺は顔を見られないように、パールを抱き寄せる。ライトになると決意したのに、罪悪感が胸にくすぶる。
「大好きよ、ライト。あなたのためなら何だってできるわ」
「そんなこと、こんな二人きりの空間で言ったら駄目だよ」
「どうして」
上目遣いになったパールの朱色の口紅が魅惑的に艶めいている。
冗談めかして言ったつもりだったのに、彼女の瞳が熱く潤んでいた。
俺は目を逸らした。駄目だ、これ以上は。
「どうしてって」
「キスして」
パールが声を絞り出しながら、俺の上着を小さく掴んだ。
「え?」
ドッと心臓が早くなる。急に彼女の体温を感じてしまった。
パールの耳が赤くなっているのを確認し、慌てて体を離す。
パールがキスをねだって瞳を閉じた。長い睫毛が涙で濡れている。
……そうだ。迷うな。俺はライトとして生きると決めたんだ。
薄く開いた目で涙の跡が残るパールの頬を確認しながら、俺はパールの柔らかい唇に触れた。
女優の泣くような歌声が、最後まで俺の耳から離れなかった。




