桜➁
新聖暦:六七年 四月十四日
任務開始から一週間以上が過ぎた。
結論から言えば、俺の精神衛生状態は最悪だ。
首席卒業の栄誉も、洗練された魔導理論も、この地下室では意味をなさない。
得意であった、『氷槍生成魔術』もこの部屋では、「粥の温度を下げる氷生成魔術」としてしか役に立たない。
一週間が経ち、ほんの少しずつ、この「勇者」について分かってきたことがある。
彼の生活は驚くほど規則的だ。
朝、俺が黒絶石の扉を開けると、彼は既に目を開けている。
時計のない部屋(そもそも時計を読む認知機能はあるのかわからないが)で生活しているにも関わらず、彼の起床時刻と睡眠時間は一定のペースを維持している。
医療魔術で診断したのだから間違いない。
最初は吐き気がしたが、時間というのは恐ろしい。
あれだけ不快であった排泄物処理も、三日も経てば「作業」として処理できるようになった。
だが、どうしても理解できないルーティーンがある。
食事の時だ。
俺が銀の匙で粥を口元へ運ぶと、奴は必ず、そのまま食事をとらない。
祈るように両手の指を組み(下半身は動かないが、腕は辛うじて動くようだ)、決まって同じ音を漏らす。
『イタダキマス』
解析によれば、これは魔法の詠唱ではない。魔力の揺らぎが一切観測されないからだ。
だが、彼はこの音を発しない限り、絶対に口を開けようとしない。
一度、実験のためにこの音を無視して無理やり匙を押し込もうとしたが、奴は驚くほど強い意志で唇を噛み締めた。
「……頑固な爺さんだ。たかだか粥を食うのに、何の儀式だよ」
俺は吐き捨てたが、その音の響きが妙に耳に残る。
『イタダキマス』。
エリュシオン語の「慈悲に感謝する(グラティア)」とも違う。もっと……命そのものを、自分の内に受け入れるような、静かな覚悟の響きだ。
さらに、食後にも決まった音がある。
『ゴチソウサマ』。
これもまた、一音一音が丁寧だ。
奴はこの地下室で、自由も尊厳も奪われ、エルフに「ガラクタ」として管理されている。それなのに、なぜこれほどまでに「食う」という行為に対して敬虔でいられるのだろうか。
俺が知る「弱者」は、もっと惨めで、救いを求めて喚き散らすものだ。
だが、この男は違う。
何も持たず、何も語らず、ただ『イタダキマス』という一言の防壁を築いて、自分の魂の最後の領分を守っているように見える。
……明日、試しに奴の目の前で、俺もその音を真似てみようと思う。
魔術師として、実験だ。
奴がどんな反応を見せるか。あるいは、その音に込められた「意味」の断片が見えるかもしれない。




