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桜➂

 新聖暦:六七年 四月十五日




 強く、暗い雨が降っていた。


雨に喪失の予感を感じるのは、きっと俺の故郷が焼き尽くされた日に起因している。


あの日も、豪雨が町を覆っていた。煉瓦から上がる雨と土煙の匂い。


 それを嗅ぐと、なんだか不安に駆られる。




 けれど、大人になった今なら、そんなことは起きないだろう。


そんな自惚れた自尊心のせいで、俺は慢心していたのだった。




 いつも通り、勇者の検診と介助を一通り終え、休憩室にて昼食をとっていた時。




 耳を刺すような警告音が、建物全体に鳴り響いた。




『緊急事態発生! 緊急事態発生! 実験施設三十二番より、合成魔獣が脱走! 施設内職員は宮廷魔術師の到着を待ち、応戦するべし!』




 合成魔獣は、魔王城周辺で発見された強個体魔獣を遺伝子実験により、軍事用として合成した戦争使用の魔獣である。大学での実技試験で戦闘した試験用個体とは異なり、 命を狩る為に生まれた、獣である。




 慌てふためく女エルフの声。走り回る職員たち。ひっきりなしに続けく警報。騒然と化した室内で、俺も同様に退避準備を進めていた。




『合成魔獣は地下へと移動中! 職員は地上へと脱出せよ! 繰り返す————』




 その言葉に、俺は足の向きを変えた。


流れる人々の流れに逆らい、地下へ地下へと駆ける。




————正直、世の中ってのは反吐が出るほど単純だ。




 強い奴が勝ち、弱い奴は淘汰される。ただそれだけ。




 けれど、そんな世界を俺は許容できない。弱ければ淘汰される。それが自然と受け入れて仕舞えば、俺の故郷が、家族が奪われた事実を肯定することとなる。


 彼らは弱いから死んだ。そしてそれは仕方の無いことだと。




 あいにく俺は、それを認められるほど大人になりきれていない!




 いち早く、少しでも早く彼の元へ。この建物で一番弱い状況にある彼を、このまま置いていくわけにはいかない!




「おい! 無事か!」




 黒絶石の重い扉を肩で押し開け、俺は叫んだ。


肺が焼けるように熱い。逆流する群衆を突き破り、魔導阻害のノイズが渦巻く地下へ飛び込んだ代償だ。




 部屋の中は、不気味なほど静まり返っていた。


 正面。古びた椅子に磔にされた老人は、いつもと変わらず、力なく頭を垂れている。爆音も、咆哮もない。




「……まだ、来てないのか」




 膝に手をつき、荒い呼吸を整える。安堵が全身の力を抜こうとした、その時だった。




――違和感。




老人の背後。石壁の質感が、陽炎のように僅かに歪んだ。


そこには「何もいない」はずなのに、空間が物理的な質量を持って、じり、と老人の首元へ肉薄している。




「……透明化能力か!」




 反射的に右手を突き出す。脳内で術式を編もうとしたが、黒絶石のノイズが火花を散らして思考を遮断した。それでも必死に脳内で演算を進行し、術式を構築していくが、一節を刻む度に脳に熱が篭る。




 しかし、それを気にする余裕はない。弱者が蹂躙される世界を許容したくない。


その一心で俺はこれまで努力を重ねてきた。




 ここで、目の前の老人一人救えない人間が、この先を生きていいはずがない!




 魔獣の輪郭が、老人の背後で、鎌のような爪を振り上げる。


老人は動かない。逃げる術も、防ぐ術もない。ただ淘汰されるのを待つだけの「弱者」として、そこに座っている。




「どけッ! じいさん!!」




 考えるより先に、俺の体は地を蹴っていた。


魔導理論? 効率? そんなものはいらない。


俺の目の前で、理不尽に命が刈り取られるのを、俺の魂が拒絶している。




 俺は勇者の椅子に飛びつき、その貧弱な体を抱きしめるようにして庇い、床へと転がった。


 直後、背後で石壁が爆ぜる音がした。


目に見えない爪が、つい数瞬前まで勇者の頭があった場所を正確に切り裂いたのだ。




「……っ、ハァ、ハァ……」




 床に這いつくばりながら、俺は冷や汗を流して魔獣の「気配」を探る。


だが、見えない。音もしない。




 黒絶石のせいで探知魔法も使えない。


死の鎌が、暗闇からを俺たちを狙っている。




(終わりだ。俺はここで、こいつと一緒に、見えない牙に食い殺される)




 絶望が首筋を撫でた、その瞬間。


俺の腕の中で、震えていたはずの老人の体が、急激に熱を帯びた。




 掠れた、けれど芯の通った魔力。


老人の瞳がカッと見開かれ、その濁ったはずの眼球に、鮮烈な「意志」が宿ったのを俺は見た。




直後。


術式構築概念が、目の前で崩壊した。




 詠唱も、魔法陣の展開も、予備動作すら一切ない。


老人の周囲に、猛烈な密度の魔力が一点に収束し――次の瞬間、部屋全体に拡散した。




「――『櫻』」




 その一言が放たれた瞬間、俺の脳を蹂躙するような魔力の奔流が、部屋全体を埋め尽くした。完璧な幾何学模様ではない。


それは、ひらひらと舞い落ちる、薄紅色の花びらの乱舞。




 数千、数万という、鋭利な花弁。


 その全て一つ一つが、独立した術式によって構成されている。


 俺がこれまでに構築した全ての魔術でも足りないような、膨大な魔力が目の前で現実となる。




それが、目に見えない魔獣を炙り出すように、空間の隅々までを埋め尽くした。




「ギャアアアッ!」




 虚空から、苦悶の叫びが上がった。透明化していた魔獣の巨体が、無数の花弁に切り刻まれ、鮮血を撒き散らしながらその醜悪な姿を現した。




 老人が短く呼気をついた瞬間。


二つの属性を一切のタイムラグなしに、単一の術式として同時並行で組み上げる。伝説でしか聞いたことがない神の業。




「――『焦桜しょうおう』」




 世界が、紅蓮に染まった。


舞い散るピンクの花弁が、すべて超小型の爆弾へと変貌する。




 黒絶石の阻害など、圧倒的な「構築の物量」と「速度」で踏みつぶしていく。


熱線と爆風。再生の暇すら与えず、魔獣の巨体を塵へと焼き尽くす無慈悲な爆炎。





一瞬。


文字通り一瞬で、魔獣が、焦げた花の匂いだけを残して消え失せた。




 俺が自負していた術式構築の美しさ。それ以上に、その構築速度。


俺が今まで積み上げてきた全ての魔導理論が、目の前で完璧に、そして残酷に否定された。




 脳が焼ける。


 先程まで命のやり取りをしていたことすら忘れ、俺はただこう思っていた。




————なんて、美しいんだ......!

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