第10話『鎌首』
暫しフリーズした後、ふと我に返り、ねんねさんに「やだぁ! 冗談はやめてっ! 私なんかには無理無理っ!」と言って笑いかけたが、ねんねさんは真顔のまま、表情を崩さない。
「いや、大マジ。 あ、こっちこっち!」
そう言いながら、ねんねさんがファミレスの入り口に手を振った。
「お久しぶり! 相変わらず元気そうで何よりだよ!」
こ、この人は……
今回、私たちがSTD(性行為感染症)健診でお邪魔している、UTSUSEMIプロダクション』 (全国的に風俗関連事業を営む最大手企業)代表の唐口さんだ!
相変わらずメガネの奥からは、私の顔や胸を品定めするような視線を放っている。
「真優ちゃ〜ん、やっぱ、かわいいね〜! ねんねから話は聞いたかな? ギャラは弾むよ~」
ねんねさんが「ね! 社長、まゆちゃんにぞっこんなのよ。 これから一緒にガンバっていこ!」と笑顔で言ってくれた。
「ち、ちょっと待ってください! 無理! 無理です!」と必死に断ってみたが、唐口さんのトークは止まらない。
「ウチの福利厚生は充実してるよ〜! ネイルとメイクは無料! 長期休暇もOK! 2年に一度は海外旅行だぜ!」
今どき随分と羽振りの良い話があったものだ。
この時、ふと気付いた。
医療……特に私たち診療部門は『営利を目的としてはならない』という大原則がある。 『如何にして売り上げを伸ばすか』を日々追求している資本主義的な理念とは、根本から異なっているんだ。
唐口さんが続けた。
「給料だって、真優ちゃんが来てくれるのなら……これだけ出すよ!」
……!
……え!? ……ま、まじ!?
スマホで提示してくれた額面を見て、目を疑った!
一度目をこすって見直したが……間違い無い!
私のお給料なんて足元にも及ばない、文字通り桁違いの金額だ!
こんなにお給料を貰えるなら、大好きな漫画を気兼ねなく買い漁れる♪
いや、それどころか、エステやネイルサロンで自分磨きして、ステキなコーデに身を包み『この世の天国』と噂に聞く『ホストクラブ』とやらに行って、超ステキな殿方に囲まれる経験だって出来ちゃう!
ち……ちょっと待って……それどころか……憧れのデザイナー学園に通って、既にすっかり諦めていた、漫画家になる夢を叶えることだって出来るんじゃない!?
あと、私の心が揺れている理由はそれだけではない。
今、ひしひしと感じているのは『求められている』と言う実感だ!
これまでの私の人生……そしてこれからも、こんなにも必要とされる事があるだろうか?
臨床検査技師は、ドクターや看護師ではない病院の裏方だ。 誰からも感謝も期待もされていないこの仕事に固執する必要があるの?
……私の中で、漠然と感じていた陰鬱とした思いが心の中でじわじわと拡大し、新しい世界……『お水の世界』への転職……という考えが、鎌首をもたげ始めていた……。




