第6話 リストカット
店舗の事務所に戻ると、既に殆どの準備が済んでいた。
「陽向さん、遅くなっちゃって申し訳ありません!」と頭を下げると、陽向さんが「良いよ〜。 だいぶ早く着いちゃったから、のんびりやろう!」と言って、ニコッと笑ってくれた。
その横で盛元先生が、問診に使う電子カルテの入力準備をしている。
ホッとして、私も盛元先生の横のパイプイスに腰掛けた。
健診開始時間の17時を過ぎ、少しずつ従業員さんが集まって来た。
陽向さんが簡単な予診をして、盛元先生が問診を行い、私が検体採取をするという流れだ。
今回の『STD(性行為感染症)健診』で採取する検体は『血液』『尿』『膣分泌液』の3種類……とは言え『尿』と『膣分泌液』は私が採取するわけではなく、専用容器を渡して、自分で採取してもらうので、実質、私の仕事は採血だけだ。
「あらやだ、オネェさんが血ィ抜くの〜?」
これまた派手な服を着て眉ピアス(!)をした女性が、私を見ながら不満そうに大声を出した。
「アタシ、必ず失敗されるんよ。 さっきのお兄さんに抜いて欲しかった〜」と言いながら、ドカッとパイプ椅子に腰掛けた。
何? この女性! 明らかに私をみくびっている。 失礼しちゃう!
『さっきのお兄さん』とは、陽向さんの事だ。 陽向さんは、既に次の人の予診を始めている。
眉ピ(眉ピアスの女性に私がつけたあだ名)が、「アタシ、今日も忙しいんだからチャッチャとやっちゃって!」と言いながら、ゲンコツをぐいっと私の目の前に突き出した。
むっ! なんて挑戦的っ!
あ〜も〜、超ムカつく!!!
昔から『医は仁術』と言われ『医学の道を進む者は、滅私の心で病と戦う術を身につけよ』と説かれているが、私は『医療従事者』の前に、ひとりの『感情』を持った、まだまだ未熟な人間だ。
いつもは被検者さんに心配をかけさせないよう、軽い笑顔と柔らかい物腰で採血に臨むのだが、今回は怒りの感情を抑え切れず、ややぶっきらぼうに「……袖を捲って、ここに乗せて下さい!」と言って、突き出された腕を掴み、机の上の腕枕に乗せた。
眉ピがふてくされたような声で「はいはい、こうですか」……と、言いながら薄手のボレロの袖を捲った。
……!
前腕内側に、不自然な横線が複数入っている。
……それは、明らかに『切痕』……即ち『リストカット痕』だった。
『リストカット』……カッター等の鋭利な刃物を使い、自身に傷を付ける、所謂『自傷行為』だ。
学生時代『公衆衛生学』で学んだが、このような自傷行為を起こす原因は、非常に複雑な心理が絡み合い、一概には言えないものの『高ストレス』に晒されている事が主たる要因なのは間違いない……との事だった。
私……この人の見た目と態度だけで、ついイラついてしまっていた。
どんなストレスに晒されていたのか知る由もないが、恐らくこの人の心底には、とても脆弱な精神が内包されているのだろう。
今なら間に合う!
私はいつもの心を取り戻し、笑顔を向け、ちょっと戯けた調子でこう言った。
「……ふふっ、Aさん(眉ピさん・仮名)、血管細いですね〜! でも私、こう見えて失敗しないので(笑) それか、失敗覚悟で、あちらのお兄さんに、採血を頼んでみます〜?」
眉ピ……いや、Aさんが「痛いの嫌! じゃあ、おネェさん、お願い〜」と、猫なで声を出した。
『眉にピアスする方が採血なんかより余程痛いんじゃないですか?』等とは言えず「承知しました。 ご安心下さい」と答えた。 そして、駆血帯(採血や注射の際に腕を縛るベルト)を少し強めに締め、リストカット痕がある前腕部を手のひらで心臓に向かって数回擦った。 これにより、静脈が怒張し、血管が浮き上がるんだ。
ここで、少しだけ間を置いた。
実は、人間は複数の『痛み』を感じることが出来ない。 駆血帯を、強めに締めた事により、針を刺入する時の痛みを感じにくくする為の作戦だ。
問診の合間に盛元先生が「Aさん、運が良いですよ! この技師さんはね、ウチのクリニックで一二を争う採血の達人ですから」と声がけをして下さった。
さっきまでのやり取りを見ていた先生が、空気を読んで助け舟を出してくれた! とてもありがたかった。
血管を探ると、確かに細い上、かなり奥まっている。
あそこまで大見得を切ってしまった手前、失敗は許されない!
しかし、確かな手応えがあった! きっと大丈夫!
酒精綿で消毒し「チクッとしますよ〜」と言いながら針を刺し、慎重に針先を進め……
逆血(針先が血管壁を刺し、採血出来る状態になった証)を認めた! すかさず血液を抜く。
採血は無事終了! Aさんは「ありがと〜」と言って微笑んでくれた。
『いえいえ、こちらこそ良かったです(汗)』とは言えず、平静を装って「お疲れ様でした~」と返し、採尿容器と膣分泌液用の専用容器を渡した。
ホンの一瞬の出来事だったが、『医は仁術』を思い出させてくれた『鼻ピアスのAさん』とのエピソードは、私の臨床検査技師人生にとって大きな出会いだったと思う。
更に、こう思った
願わくば、Aさんのリストカット痕が、もうこれ以上増えませんように……と。




