霧の華 Fog Flower
二人が宿屋に戻った時には、ギリアムとホークスも修復作業を終えて、食堂でアリアと一息ついていた。ギリアムは酒をあおり、ホークスにも渋々注いでやっている。アリアが、そう命じるからだ。ホークスは苦々しくも、ギリアムの酒を受けている。アリアはお茶にとどめているようだ。
帰ってきた二人に気づき、アリアがにっこりとする。
「おかえりなさい。外は気持ち良かったですか?」
「ええ。気晴らしには丁度いい感じ。アリアも今度は、一緒に行こうよ」
「はい!」
外気で少し身体が冷えたライルは、宿のオヤジに酒を注文する。どさりとイスに腰を落ち着けるが、ノエルがいない事にふと気づく。
「ノエルの奴は、まだアレなのか?」
「そうみたいですよ。ふふっ。すごいんですから。私が部屋に入っていっても、全然気づいてないみたいでした」
部屋のノエルの様子に、アリアは何やら楽しそうだ。
やれやれと、ホークスが肩をすくめて、ギリアムに注いでもらった地酒をあおる。
「あいつも、相変わらずだねえ。何が面白いんだか、俺にはわからねえなあ」
しみじみと告げるホークスに、ギリアムが顔をしかめている。
「ふんっ。おぬしは、女の方が面白いのだろうが」
「まあ、そうだねえ……お宝ちゃんを探してるのと同じくらいってとこかな? 女の心は、本よりも難しいぜ。ノエルも、もうちょっとそういう方に気が回ると、変わってくるんだろうけどなあ」
そう言って噂をしていると、なんとやら。ノエルがフラフラと階下に降りてきた。かなり衰弱している様子だが、その両目は生き生きとした喜びの輝きに満ちている。そんな様子の魔術師に、アリアは微笑む。
「お疲れ様です、ノエル様。終わりましたか? お勉強」
「はい。一通りは。まだこれから後で、何度も読み返す所は出てくるはずですが。でも、どこに何が書かれているのか、全部把握しました。色々ありがとうございました、アリアさん」
「いいえ。ふふっ(ホントに、ノエル様って変わってる)」
その時、表が騒がしくなってきた。
何か、女性の甲高い叫び声が聞こえてくる。
それをなだめるような女性達の大声がするのだ。
一同、顔を見合わせて、何事かと外に出る。
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通りには、訳の分からない事を口走って、刃物を持って暴れる少女……アリアよりも、少し年下くらいの少女と、その暴れる少女に必死に声をかけてなだめようとしている数人の女性がいた。
「あの子、どうしたのかしら?」
「男と別れ話でもしたんじゃねえのか?」
告げるホークスに、ノエルは慎重に首を振る。
「いいえ。そうではないようですねえ。言ってる事が、支離滅裂です。別れ話なら、断片的にでもいきさつがわかるものですが」
遠巻きにして様子をうかがう一同だったが、一番最後に宿から出てきたライルは、その少女の様子が目に入った瞬間、表情が一変した。
彼は、このような状態の人間を見た事がある……父親と同じだ。麻薬『霧の華』で中毒になり、禁断症状に陥って暴れた父親の様子と、全く同じなのだ。
思わずライルは、そちらへ向かって飛び出していた。
遠巻きにしていた他の者達を吹き飛ばさんばかりの勢いで突進する。脇を風のように通り過ぎていったライルの姿を見て、ティナ達は少し驚いている。
「ちょっと、ライルっ! どうしたってのよ!?」
ティナの声も、今のライルの耳に届いているのかどうか……
少女が刃物を振り回している手首を、間合いを見てタイミング良く掴む。鮮やかな手並みだ。少女は空いた方の手でライルの顔に爪を立てたが、彼は眉一つ動かさずそれを受け入れ、静かに耐えた。ゆっくりそちらの手首も掴み、彼女がこれ以上暴れて自らを傷つける事の無いよう、細心の注意を払いつつ、待つ。
彼の腕前なら、昏倒させる事もできたはずだ。しかしライルは、己の中にある何かを確認するかのように、全てを、その身に受け止めていた。少女に腕を噛まれても、微動だにしなかった。
あの時、自分がこうしていたら。できていたら。
止められたはずだろうに。
守れたはずだろうに。
俺は……
俺にはそれが、できなかった。
そんな考えが、彼の頭をかすめていく。
やがて、過剰な興奮による血圧上昇がもたらした一過的な虚血症状により、少女は自ら失神して膝からくずおれる。ライルは、少女をそっと受け止めた。
一部始終を見守っていた仲間達が、駆け寄ってくる。周りで少女をなだめようとしていた女性達も心配そうに近寄ってきた。気絶した少女を抱きかかえたまま、ライルはその女性達に問いかける。
「この子を寝かしてやろう。どこか、落ち着けるベッドはねえか?」
女の一人が答える。その額にかかる乱れた前髪が、どこかやつれたような雰囲気の女性だ。どうやら、彼女達の姉貴分にあたる女性のようだ。
「なら、こっちへ。すまないねえ、兄さん。助かったよ。あたし達だけじゃ、もうどうにもならなかったんだ。礼を言うよ」
側まで近づいてきたアリアが、心配そうに声をかけてくる。
「ライル、大丈夫ですか? 怪我をした方がいましたら、私が癒しを……」
言いかけるアリアに、ライルは曇った顔をして首を振る。
「大丈夫だ、アリア。この子も、その人達にも怪我はねえ。この子の心にも、アリアの癒しが効いてくれたら……」
「え?」
少女に爪を立てられた顔の傷や噛まれた腕から滲む血、自分が受けた痛みには全く触れず、ライルは少女と周りの人間に気をかける。自分の体の痛みなど、悲しみなど、どうでもいい事だと思い込んでいる。他の人間と同じく、自分自身も等しく価値を持つ存在であるはずなのに。彼の悪い癖だった。子供の頃から心に巣食う罪悪感が、知らず知らずのうちに彼をそのようにさせてしまっていた。
「いや、なんでもねえ。俺は、この子を寝かしつけてくる。宿屋で待っててくれ」
一同うなずいて、ライル達を見送った。
しかし、そんな様子のライルの言動に不安を隠せない一同だった。
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道すがら、ライルは女性達に事情を聞く。
やはり、少女は『霧の華』の常用者だった。この宿場町の女郎部屋の一つで身体を売っていたと言う。女性達は、そこの仕事仲間の女郎達だ。
その少女は、その女郎部屋に売られてきてから日が浅く、絶望的な日々に耐えきれなくなって、麻薬『霧の華』に手を出したらしい。彼女のような境遇にある女性達には、決して珍しい事ではない。気晴らしとして自分から手を染める事もあれば、やっている仲間から勧められたり、客に無理強いされる事などもあるのだ。
そして、ライル達が先日、この地方に『霧の華』を供給していたダミアンの組織を叩き潰したため、裏でそれを小売りしていた仲買人の『霧の華』の在庫が少なくなった。その結果、残る『霧の華』の値段が跳ね上がり、少女の手に届かない金額になってしまった。少女の手元にあった『霧の華』は底を突き、仲間内で持っている者達から分けてもらった分もなくなってしまい、その結果禁断症状に襲われて、刃物を持って暴れ出したのだった。
それを聞いたライルの胸に、激しい怒りと凄まじい憎悪が荒れ狂う。げっそりとやつれた顔をしている気絶した少女を見やるにつけ、果てしない怒りと悲しみが胸の奥からこみあげてくる。
「(こんな子供にまで……。絶対に……絶対に、許さねえ。俺は、やっぱり許す事なんてできねえっ!!)」
ライルは気絶した少女を抱えたまま、その女郎部屋の一室まで運び、静かなベッドに寝かしつけた。周りの女達は、何度も何度も礼を言う。身よりのない者が多い彼女達は、お互いに助け合って生きている。仲間意識は強いのだ。すさんだ生活に耐えきれず、時には激しい喧嘩もする事もあるが、心の奥では支え合っている。
女郎達には明るいたくましさがある。金で身を売っていても、それを乗り越えて生きていくための心の強さがある。中には、その仕事に誇りを持って、自ら楽しむ心のゆとりを持つ者さえいる。そうでもなければ、やっていけない世界だ。
彼女達に任せておけば、少女はきっと大丈夫だろう。あと三日ほどすれば、禁断症状の大きな山場は抜けるはずだ。ライルの父親も、一度はそれで薬が抜けたのだ。しかし、また手をつけてしまった直後に薬が切れた時、あの悲劇が起きたのだった。
それまでは自分はあの宿屋にいる。また暴れ出したら呼んでくれと、ライルはそこを後にした。
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宿屋に戻る。
一階にある食堂で、皆が不安そうに待っていた。
ライルも、空席に黙然と腰を下ろした。その表情が硬い。顔は紅潮しており、歯を食いしばり、こめかみに血管が浮き上がっている。心に荒れ狂っている嵐を、必死で押さえつけている。
「ライル。あの子、どうだったの?」
尋ねるティナに、唇を噛みしめてライルは答える。
「『霧の華』だ。あれの禁断症状だ……」
ライルの両手が、かたくかたく握りしめられている。
あまりの力に、腕に震えがきているほどだ。
ティナは、はっとライルを見詰める。そしてライルのその様子を見て、彼女の胸に何ともいえない不安がよぎった。他の者達も、素早く顔を見合わせた。今は、ティナだけでなく、他の者達もライルと『霧の華』が、何らかの因縁を持ってる事を推測していた。
ノエルが慎重に口を開く。推測が確信に変わり、今彼は、敢えて確認しようとしていた。少々残酷な事かもしれないが、自分の心を決めるために、その必要があった。目の前のライルの様子が普通では無い事を把握した上で、わざと、このような言葉を告げるのだ。
「『霧の華』というと、希少価値の高い麻薬ですね。それゆえに珍重され、裏でかなり高額で取引されると聞いた事があります。何倍も依存性が強いそうですが」
その言葉に、ライルの中で何かが弾け飛んだ。
「価値だとっ!! あんなもんに、そんな価値なんて認めねえっ!! あんな子供まで毒牙にかけやがって。許せねえ……絶対に許せねえっ!! ちくしょう、ちくしょおおおおっ……クソったれがああああっ!!!! 」
宿の食堂中に、ライルの凄まじい怒りの叫びがとどろいた。耳にした者の腹の底までビリリと響く。
口をギリギリと噛みしめ、両の拳をさらに力を込めて握りしめているライル。その握りしめる拳から、指が食い込んで血が床にしたたり落ちてくる。ライルは胸に荒れ狂う激情を押さえきれず、イスを吹き飛ばしてバッと立ち上がると、早足で宿屋の出入り口へ向かう。開け放たれた出入口の脇に空の酒樽が置いてあったのだが、彼は利き手の右拳を思い切り空樽に叩きつけた。木製の樽は騒々しい音をたてて吹き飛び、信じられないくらい大きな穴がぽっかりと空いてしまった。
ライルの拳は皮膚がずるりと削られて、白い骨まで少し見えてしまっている。しかし、拳から流れる大量の血を気にも留めず、激情に身を任せて足早に外へ飛び出してゆく。
「ライルっ!!」
その後をティナが続いて追いかけようと立ち上がる。
そのティナの肩に手をかけて、ホークスが引き留めた。
「今は、行かないほうがいい。しばらく旦那をそっとしておいてやろうぜ。ティナ、お前知ってるんだろ? 無理にとは言わねえが……俺も知りたい。ライルの旦那の、あの異常な怒りの訳を。もしよかったら、聞かせてくれねえか? 力になれるかもしれねえ」
ティナはホークスを見詰める。周りの皆を見回すと、アリアも、ギリアムも、ノエルもホークスと同じ思いでティナを見詰めている。ティナは悲しげにうつむいて、床に視線を落として迷っている。
「あの、ティナさん。私、どうしても聞きたいんです。本当はライルに直接聞くべきなんでしょうけど……。それはきっとライルを苦しめてしまうから……すみません。私、卑怯者です。でも……どうかお願いします。どうしても、どうしても知りたいんです」
アリアは深々とティナに頭を下げる。その両手が修道服の裾をぎゅっと握りしめて震えている。アリアのその気持ちが、ティナには痛い程良くわかった。かつて、今のアリアと全く同じ思いを胸に抱いた時の自分の姿と、アリアの姿が重なってしまう。
小さく息を吐き出すと、ティナは心を決めて、静かに、とぎれとぎれに語り出した。救いようのない、ライルの悲しい生い立ちを。麻薬『霧の華』によってもたらされた悲劇を。
語り終える頃には、ティナの瞳に涙がにじんでいた。アリアはこれで、あの時高熱に魘されたライルが口走っていた言葉の全てが理解できた。ホークスの瞳の色は、更に深く沈み、ギリアムの渋面は一層厳しさを増し、ノエルは悲しげに視線を落としている。




