小さなアリア Little Alia
冷たい冬の日。
町はふかふかの雪に覆われている。
町の学校から尼僧院へ帰る途中、その細道を一人でなんとか歩きつづける小さなアリアのブーツは、半分以上雪に埋もれてしまっている。踏みつけた雪がブーツの底にまとわりついてくるので重い。八歳の彼女には、こんな道を歩くのは結構大変そうだ。
よいしょ、よいしょと白銀の世界を進むその女の子の頭に、どこからか飛んで来た雪つぶてが当たる。アリアの毛糸の帽子に炸裂した雪つぶては砕け散り、白い粉吹雪に変わって彼女の視界を奪う。そんな雪つぶてが、大小取り混ぜて次々とアリアの頭や身体に当たる。何人かの男の子達の笑い声が響く。
アリアは、その男の子達の声は今まで嫌というほど耳にしていた。
……まただ。
「よ~し、やっぱ俺が一番当たったな!」
「何言ってる、ザック。俺と同じ回数だ」
「キースよりも俺の方が遠くから投げてんだ。一緒にすんな」
言い争う二人の腕白坊主達を、もう一人のすました感じの男の子が制する。
「いやいや、それは違いますねえ、お二人さん。それぞれ3発のうちで、2回頭に当てた自分こそ、一番優れているという事は明白です。今日のボクの宿題は、君達二人でやってきて下さいね」
「なんだ、そりゃ!? 納得いかねえぞ。また屁理屈ばっかりこねやがって、こいつ」
「いや、ジュ-ドの言う事にも一理はある。でも俺も納得できない」
「ではでは、お二人さん。こうしましょう。ここに線を引く。そしてその線から同じ数だけ投げる。身体に当たったら一点。頭に当たったら三点。五回投げて合計点で決めましょう」
ザックとキースは納得した。
このジュ-ドの提案は、いつもながら素晴らしい。
学校の先生も手を焼くこの悪たれ坊主達は、必死で雪道を逃げようとしているアリアに再び雪つぶてをぶつけるゲームに没頭し始めた。慌てたアリアが転んだのを見て、一斉にはやしたてて笑っている。「あれで当たったら5点だぞ」と、転んだアリアを狙って投げてくる。
瞳に涙を一杯溜めながら、アリアは小さな声を振り絞る。
「やめて。もうやめて。ひどい事する人は、主の報いを受けますよ!」
『呼んでみろよ、神様を! 癒しも全然できねえくせに!』
『丁度良かった。さっき俺、枝に引っ掛けて血が出たんだ。治してくれよ!』
『いやあ、それは無理というものでしょう、キース君。彼女は、先生やフローラに言いつける事しかできない人間なのですから』
ひどい言葉に、小さなアリアは泣き出してしまう。それを見た男の子達が一層はやしたてる。
その時、アリアの行く手から年若い修道女が、怒りに顔を赤らめながら走ってきた。この寒いのに、修道服の上には何も身に付けずに駆け抜けてくる。どうやら、寒さなど気にならないくらい怒り心頭といった感じだ。その十代後半といった年頃の修道女は声を張り上げる。
『コラ! 悪ガキ達っ! アリアになんて事するの!』
それに気づいた三馬鹿トリオは、一斉に顔を見合わせて小声で打ち合わせる。
「(ヤベっ! フローラだ。よ~し、投げたら逃げるぞ!)」
「(フローラは何点だ?)」
「(顔面なら十点ってとこですかね。勲章モノでしょう。当てた人の逆転勝ちです)」
「(よし、俺に任せろ!)」
駆けつけてきたフローラの顔面に、ザックの投げた雪つぶてが炸裂した!
彼女の怒りは頂点に達した。青い瞳が燃え上がる。
「……こんのクソガキっ! なめんな、ボケッ!」
素早く逃げる男の子達に、怒り狂ったフローラが雪つぶてで反撃する。男の子達は器用にひょいひょいと避けてゆき、三人とも最後にフローラに振り返ってペロリと舌を出して消えていった。(今日のゲームの勝利は『勇者ザック』に与えられ、宿題肩代わりの権利を手にしたらしい)
まだ怒りが収まりきらないフローラだ。
それでも一つ大きく息をすると、腰をついているアリアの手を取り、引っ張り起こしてやる。
「全く、もう……。ほら、アリア。帰ろう」
毛糸の手袋をしたアリアの小さな手を握り、フローラは一緒に聖カタリナ尼僧院へと帰ってゆく。数分ほどで尼僧院の建物が見えてくる。すると、それまでずっと黙りこんでいたアリアが、うつむきながらポツリと言う。
「私、もう学校行きたくない。フローラ姉さん」
「それはイングリッド姉さんと相談しないと。私からは何とも言えない」
しかし二人とも、イングリッドが何と言うかは想像できていた。
前にも何度か同じような事があり、その全てが同じ答えだったのだから。
イングリッドが今日の当番になっている礼拝堂に入るまで、二人ともそれきり無言だった。
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やはりイングリッドの答えは、アリアとフローラが二人とも予想していた通りだった。
「それはダメですよ、アリア。逃げてはいけません。主は、もっと困難な試練に立ち向かいました。アリア。あなたは、あなたの試練に立ち向かいなさい」
いつもなら、 『はい、イングリッド姉さん』と答えるアリアだったが、この日は目を伏せて口をぎゅっとつぐんで黙り込んでいる。
「返事が聞こえませんよ、アリア」
小さなアリアの両目に、涙が一杯溜まっている。
その様子を察してもなお、イングリッドは告げる。
「答えなさい、アリア」
かわいらしい口をぎゅっとつぐんで、訴えるような瞳で真っ直ぐにイングリッドを見上げるアリアだ。
「主には、お父様とお母様がいました。私にはいません」
斬りつけるような言葉を、この母親がわりのイングリッドに突きつけた。
イングリッドは、礼拝堂の前に捨てられていた赤子のアリアをずっと世話している修道女だ。このアリアの言葉は、わかってはいても、承知してはいても、イングリッドの心を傷つける。しかし、それをも全て受け入れられる愛情を持つ女性だ。その愛は、時に優しく時に厳しく、我が子とも言えるアリアに向けられる。
「それがどうしました? そんな事は関係ありません。あの場所は、今のあなたに必要な場所なのです。好きな人にも、嫌いな人にも接しなさい。それが、あなたの魂にとって良い事なのです。そのような事、私は許しませんよ。……アリア。返事はどうしました?」
無機的な声で、「はい、イングリッド姉さん」と答えるアリア。
それが今の小さなアリアにできる、精一杯の悲しい抵抗だった。
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一年前から、イングリッドは院長に許可をもらい、アリアを町の学校へと通わせていた。この尼僧院にはアリアと同じ年頃の子供はいなかった。それでイングリッドは、同年代の子供達と接する時間をアリアに与えさせて欲しいと院長に頼んだのだった。彼女は、幼いアリアには、なるべく普通の子供達と変わらないような時間を作ってやる事が必要だと思っていた。修道女になる以前、世の荒波にもまれて生き抜いてきたイングリッドだ。他の修道女達には見えない何かが、彼女には見えていた。
今や八十歳を越える年頃の老修道女の院長は、イングリッドの考えに賛成した。院長は、戒律に凝り固まった生活は時に人の心を歪めてしまうという事をよくわきまえていた人だった。彼女の友人だったとても真面目な修道女は、一人の男と恋に落ち、罪の意識に思いつめた末、その男と駆け落ちして心中してしまった。若き日のその悲劇がこの老修道女を変えていた。いや、変わらざるを得なかった。
はじめのうちは、アリアも元気よく学校へ通い、その日にあった出来事をうれしそうにイングリッドやフローラに告げていたものだった。でも半年ほど前から、アリアは何かといじめられるようになっていた。修道服を着たアリアが目立つという事もあるのだろう。が、イングリッドが思うには、アリアにも少し問題を感じる所があるのだ。
アリアは『良い事と悪い事』、それにこだわり過ぎてしまい、ささいな事でも善悪で物事をとらえて、相手を批判してしまうのだ。腕白坊主達の他愛無いイタズラも見過ごせない。注意する。それも、『神様』を引き合いに出してくる。神が自分にとって絶対的なものであるアリアにとっては当然の考えであっても、煙たがられるものだ。そしてアリアは「自分が絶対に正しい」と思っているので、反感をかってしまうのだ。
今のアリアは、盲目的に神を信じている。自分の心にとって、その絶対的な支配を望んでいる。そうする事で、自分の心の安定を求めようとしている。それを他人にも要求する。神の名を振りかざして。
アリアのそうした態度は、間違っているのだ。イングリッドが思うには。
『神』とは、そうした場合に口に出してよい御名ではない。違うのだ。
その事にアリアが自分で気づくようになるまで、じっと辛抱して待っているのだった。こうした事は、今の幼いアリアに口で言ってもわかるものではない。世の中には、頭では理解できても、心で悟らねば身につかない事もあるのだ。
その事を、かつて己の闇に沈みそうになった、このイングリッドはよくわきまえていた。
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その日の夕方、礼拝堂を掃除しているイングリッドとフローラの姿がある。
雑巾をバケツの水に浸して絞っては、一般の人々が訪れてくれるこの礼拝堂を少しでも心地良いものにしようと、二人は机やステンドグラスの埃を拭き取っている。
やがてフローラがその手を止めて、ためらいがちに口を開いた。
「イングリッド姉さん。アリアの事で話があるの」
ピタリと、イングリッドの手が止まる。しかし、フローラに背を向けたままだ。
なおもフローラは言葉を重ねる。
「しばらくアリアを休ませてあげて下さい。あの子、このままじゃかわいそう」
「もう少し、様子を見ましょう。あの子の強さを信じましょう」
「でも……」
言いかけるフローラを遮るようにして、やはり背を向けたままイングリッドは雑巾で机の上を拭き始める。時折、もうかなり真っ黒になっているバケツの水で雑巾を洗っては絞り、作業を続けている。そうしながら、イングリッドは静かにフローラに答えた。
「わかっています。読み書きだけなら、別にあの子を学校へ行かせる必要はないのです。この尼僧院で教えればよいでしょう。しかし、ここにはアリアと同じ年頃の子供はいません。同年代の子供達と共に成長するという時間が、この場所では与えられないのです。今のあの子に必要なものが、私達では与えられない。そのために、私も院長様もアリアを学校へ行かせているのです。でも、もしアリアがこれ以上ひどい事をされるようなら……」
見守るフローラは、イングリッドの後ろ姿から、鋭い殺気に満ちた怒りのオーラが立ち昇るのを肌身に感じた。丁度、雑巾を絞っていたイングリッドだったが、繊維が無理に引きちぎられるミチミチという変な音がしたかと思うと、その雑巾がブチリと二つに切れた!
「あらやだ。この雑巾、古くなってたみたい。取り替えなくちゃ」
などと言って、イングリッドの姿は新しい雑巾を取りに奥へ消える。真に怒ったイングリッドの引き起こした数々の武勇伝を知っているフローラは怯える。
「(イングリッド姉さん、その雑巾、私が一週間前に作ったばかりなの……すごく丈夫な布地だったよ、それ。ううっ、こ、怖いよう~っ!)」
我慢に我慢を重ねた末にキレたイングリッドの恐ろしさは底知れない。修道女になる前、イングリッドは女戦士か女盗賊、はたまた極道の妻であったという噂まである。聖カタリナ尼僧院の中では一番の力持ちのイングリッドで、皆がどうやっても開かないビンのフタをやすやすと開け、他の修道女達が三人がかりで運ぶ重いものをイングリッドは一人で運べる(ややもすると、片手で)。夜目もきき、勘が妙に鋭く、以前聖カタリナ尼僧院に深夜忍び込んだ泥棒の男達二人を、皆がスヤスヤと眠っている間に、イングリッド一人で打ち倒して縛り上げていたという出来事もあった。
どうかイングリッド姉さんが激怒して暴れ出さないようにと、あの悪ガキ達のために神に祈るフローラだった。




