狂った歯車 Broken Gears
少年は、毎日毎日、ナイフをいじっていた。
風邪をひいて高熱が出た時ですら、そのナイフを握りしめていた。
一日たりとて、触らない日はなかった。
今日もこうして、衰弱している妹の具合を見ながら、街角でナイフをいじっているのだった。
「(これで遊んでいれば、母さんが迎えに来てくれるかもしれない)」
その少年の、歳に似つかぬ冷めた大人びた思考は、
『そんな事は、絶対にありえない』
と告げている。
馬鹿げた考えだ、と告げている。
捨てられたのだ。決まってる。
「(わかってる。そんな事、もうわかってる)」
そんな自分がいる一方で、こうしてナイフをいじらずにはいられない自分がいる。
すがるような想いを込めて。
かつて母が与えてくれた、ぬくもりにしがみつくようにして。
素早く正確にナイフの刃を出し入れする。刃を出したまま、器用にくるくると回転させて握り直す。的に狙いを定めて投げつける。時には拾った木切れを一心に彫る。切れ味が鈍くなったり、錆びる部分が出てきたら手入れしてやる。
そうした動作の繰り返しは、彼に静かで不思議な安らぎを与えてくれていた。だから少年は、何度も何度も執拗にナイフをいじり続けていた。
時には誤って自分の指を少し斬る事もある。
しばし、傷口からじんわりと盛り上がってくる自分の赤い血を見守り、ぼんやりと鈍い痛みを味わっていると、
ここに確かに自分がいる事を感じて、
痛みを感じられる自分がいる事がわかって、
なぜか少しだけ、心が落ち着くのだった。
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そして、その街にまた、厳しい冬が訪れようとしている。
『身体を温めるため』と、酒好きな飲んべえ達が大義名分をもらえる季節。家事を担う女達は、そんな男達を叱りとばし、水仕事に顔をしかめる。一般的な家庭では、暖炉で常に煮込み続けられるシチューに舌鼓を打つ。
しかし、路地裏で寝起きする浮浪児達にとって、最も危険な季節だ。
毎年何人もの浮浪児が、眠ったまま目を覚まさなくなるのだ。兄と妹は、少しでも寒さが弱まる場所を見つけて、他の浮浪児達と身を寄せあってしのぎ続けていた。
しかし、その年は例年にない寒波が街を襲った。
次々と、二度と目を覚まさない子供達が出てくる。
そして……
ある朝、彼の妹も目を覚まさなくなった。
母に買ってもらった、ボロボロになっている人形を片腕に抱きしめたまま。
「ニーナ……!?」
兄が大声で呼びかけても、
どれだけ揺さぶっても、
その小さな冷たいまぶたが開かれる事はなかった。
その少年は、静かに静かに、妹の死を見守っている。
なぜか、不思議と涙も出ないのだ。
何も……何も感じていないような気さえする。
「(早くどこかへ、ニーナを埋めてやらないといけない。どこにしようか?)」
そんな事をぼんやりと考えている。
青白い妹の死に顔をじっと見詰めながら、その事ばかり考えている。
心の中の何かから、目をそらすようにして。
受け止めきれない何かから、逃げるようにして。
やがて少年は思いついた。
街外れにある森の脇、小さな小川が流れる野原に埋めてやろうと。春になると、そこは野草の花々が一面に広がる場所だ。その場所はニーナのお気に入りだった。よく花輪を作って遊んでいた。あそこなら、きっとニーナも喜ぶだろう。
身を斬りつけてくるような冷たい風に逆らって、少年は妹の亡骸を背負って歩く。
妹の、その身体の軽さに驚いた。
「(ニーナ。お前、こんなに軽かったんだなあ……)」
彼は罪悪感に襲われる。
「(俺が、ニーナに腹一杯、喰わせてやれなかったからだ。お前にあったかい毛布一枚さえ、かけてやれなかったからだ。俺のせいだ。……ごめんな、ニーナ。ひどい兄ちゃんで、ごめん……)」
彼は、胸の中で背中に負う妹に謝り続けている。
自分のせいで、妹を死なせてしまったのだと思っている。
それは違う。
それは違うはずなのだ。
決して彼のせいではない。彼が悪い訳ではない。
こんなに妹思いの兄はいないだろう。
それでも少年は、自分のせいだと思い込んでいる。
彼の心の歯車は、この時から何かが狂い始めていた。
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やがて、目的の場所についた。
今は枯れ草ばかりが一面に広がる野原。そこに一つ、人が腰掛けられるくらいの大きさの石がある。彼は、この石の側にしてやろうと思った。よく、妹はこの石にちょこんとかわいらしく座りながら、鼻歌まじりに花輪を編んでいたからだ。
穴を掘る。
手頃な平たい石を拾って、なんとか掘る。
少年の指はもう、血だらけになっている。
でも、そんなに痛みを感じない。
手が凍えて麻痺しているからだ。
今の彼の心と同じように。
両手でスコップ替わりの石を、しっかり持っているつもりでも、何度も何度も取り落としてしまう。思うように動いてくれない自分の手を罵りながら、少年は一心に堅い地面を掘り起こしていた。
その作業は、朝から夕方近くまでかかった。
少年は一心不乱に掘り続けた。腹も空かない。ただ、口だけがパサパサに乾いている。苦しくても、構わず彼は掘り続けた。掘ることだけに集中していた。頭の中は、真っ白だ。
陽が落ちきる前には、妹の亡骸を埋めてやる事ができた。
少年は、しばしひざまづき、両手を組んで哀れな妹のために祈った。
やはり、それでも涙など出てこない。
いくら待っても、出てこない。
一滴たりとも。
そんな自分自身を、少年はボンヤリと見つめ直している。
なんでだろう?
全然、涙が出てこない。
ひどいヤツだな、俺って。ニーナを殺しておいて。
ほんとに、ひどいヤツだ……
やがて、少年はふらりと立ち上がる。
足元をもつれさせながら、また街へと戻っていった。
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夕方の街は、人通りが慌ただしい。
せかせかと、人々はせわしなく歩いてゆく。馬車が通り過ぎてゆく。
その人並みの中を、少年は身も心もボロボロになってふらふらと歩く。その汚い痩せこけた少年を気に留める人間は、誰一人としていなかった。彼の心を歪めてしまう出来事が起きたのだとは、誰一人とて知らない。
冷え込みのきつい街を、我知らずガタガタと震えながら少年は歩く。
身も心も凍らせた少年がただ独り、こうして歩き続けていた時の事だ。彼の視界に、立派な馬車から降りてくる親子の姿が映った。
高価な外套に身を包み、山高帽子をかぶった中年の父親。
ふかふかした毛皮のコートを着た、優しそうな目をした母親。
そして、妹のニーナと同じくらいの年頃の、かわいらしい女の子。
その親子は、馬車から降りて表通りの店へ入っていった。うれしそうに両親に話しかけている女の子に、にこやかに笑いながら答える父と母。どうやら、女の子の服を買ってやっているようだ。
絵に描いたような、幸せな家庭の姿が、そこにあった。
それを見た少年の両手は、いつの間にか堅く堅く拳を握りしめていた。
気が付くと、少年は自分でも訳がわからないまま、道に転がる石ころを拾い上げて、次々とその馬車に思い切り投げつけていた。
気づいた御者が慌てて馬車から飛び降りてきて、まだ石を投げつけている浮浪児を見つけた。
「このガキ! 俺がご主人様から預かってる大事な馬車に、なんて事しやがる!」
短いムチを持った小太りの御者の男が血相を変えて小汚い少年に駆け寄ってくる。
しかし、少年は逃げようとはしなかった。
彼が用があるのは、御者ではない。その馬車なのだ。自分にはなぜか与えられなかった『幸せな家族』を乗せる馬車だ。ギラギラと怒りの炎を宿した瞳をして、一心に馬車に向かって思い切り石を投げ続けている。
「やめろ、このっ!」
御者のムチが少年の頬をひどく殴り倒す。
衝撃に少年は倒れ込む。頬の皮膚が破れて血が流れ落ちる。
さらに怒りに任せて御者は少年を蹴りつける。何度も蹴りつける。
衰弱しきった少年は、ボロキレのようになされるがままだ。
ちょうど女の子の服を注文し終え店から出てきた御者の主人が、その騒ぎに気づいて使用人を制する。
「何事だ!? やめろ、ローワン。まだ子供じゃないか」
「でも、御主人様。このガキが投げた石で馬車に傷が……」
「もういい。下がれ。……すまなかった。これで好きな物でも食べなさい」
裕福な身なりをした中年男が、倒れる少年の側に金貨を一枚投げ置く。恐縮する御者をひきつれて、その様子を遠目に見守っていた我が子と妻の所に戻ってゆく。
痛みをこらえて、なんとか立ち上がろうとした少年に、その家族の会話が耳に届いた。
『お父さん、あの子、どうしたの?』
『なんでもないんだよ。かわいそうな子さ。見るんじゃない。お前は、見なくくてもいいんだ。さあ、帰ろう』
興味津々で少年を見ている女の子の視界を遮り、そう言って父親はたしなめる。
『ふうん。変なの。……なんか、汚いね、あの子。ゴミみたい。きっと、お風呂に入ってないんだよね、お母さん?』
『人の事は言えないわね、アンナ。あんまりお風呂嫌いだと、あんな子みたいになりますよ』
『ええ~!? ヤダあ! アンナは違うもん。これから毎日ちゃんと入るもん!』
必死でそう主張する娘の声に、にこやかな両親の笑い声。
その馬車は走り去っていった。
ギリリと歯をくいしばると、少年はその金貨を左手でぐっと掴んでフラフラと立ち上がる。少年は金貨を握りしめた拳を振り上げて、投げ捨てようとしたが……その手が力無くだらりと下がった。
金は、金なのだった。
どうしようもない屈辱感が彼を襲う。足元がよろけながらも、歩く。飛び出してしまいそうになる涙を、少年は激しい怒りと憎悪でこらえきった。
「(俺は、負けねえ。負けてたまるか。俺は……俺は、ゴミじゃねえっ! いつか、あいつらを見返す。どんな汚ねえ手を使っても。あいつらを震え上がらせてやるっ!)」
少年ホークスの顔から、もう笑顔は消えた。
飢えた狂犬のごときギラギラした眼差しが、この少年の顔を支配する事になる。
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少年は、誰も寄せ付けなくなった。
何でもやった。
やがて大人のチンピラ達にさえ、一目置かれるほどの存在になっていった。ホークスの一発必中のナイフ投げの腕前は、相手の目や腕の筋を確実に断ち斬る。一対一なら、この少年とまともに渡り合える大人は少なかったほどだ。
人数を集めて袋叩きにされた事もあった。しかし、後日少年の報復がその一人一人に確実に返ってきた。物陰、闇夜を利用した奇襲、時には思いもかけないワナが不意を突いて襲ってくるのだ。仲間達が次々とやられていくと、残る者達はおちおち寝てもいられない。
「目、耳、鼻、指、腕、足……おめえがいらねえのは、どれだ?」
闇夜に冷たく光る少年の不気味な目の煌めきに、恐怖を感じない者はいなかった。
そんなホークスには、だんだんと取り巻きができてきた。
しかし、彼は勝手に好きにさせていた。そして自分も好きなようにしていた。
そういった人間達が不用意に彼の心に近づこうとするものなら、たちまち手厳しい反撃を受けてしまう。周りに人はいるものの、少年は孤独だった。大人のゴロツキどもとの縄張りの裏抗争に明け暮れていた。少年とはいえ、奇抜な策を幾つも練り出す才覚が彼にはあった。力押しばかりのチンピラ達では相手にならないのだ。
そんなホークスは、誰かを傷つける事で、ようやく自分の存在を感じ取ろうとでもしているかのようだった。
むきだしのナイフのような少年だった。
収まるべき鞘を失っている。
触れる人間、全てを斬りつけていた。
悪意を持って触れる者はもちろん、
温かな手を伸ばそうとしている者達までも。
誰一人として、少年は信じていなかった。
おそらくは、自分自身さえも。
少年は血生臭い毎日を送っていた。
目の前の先は何も見えない。無頼な日々をただただ送る。
その先に、『死』がある事を心のどこかで望んでいるかのようだった。
彼の狂った心の歯車は、悲鳴にも似たきしみを上げながら回り続けていた。
ある日、ギャラハッドと名乗る変な男に出会うまでは。




