温泉郷 Hot Spring Area
ジューダスの軍師が歯ぎしりして怒り狂った夜から、何日か過ぎた日。
山奥にある、とある温泉郷で、シャリーを連れたティナが何やら温泉宿の主人と揉めている。ひなびた感じのする温泉宿の入り口で、困りきった顔をした宿の主人が、まくしたてるティナをなだめている。
「なんで入れないのっ! ここが気に入ってたから、わざわざ遠くから来たのに!」
「ですから、お客様。今はダメなんですよう。先程も申しましたように、ゲイツ様がいらっしゃる間は……」
「ゲイツだかゲイだかホモだか何だか知らないけど、こんなにたくさん温泉があるのに、何で入れない訳!? 納得できない!」
怒りに顔を赤らめているティナは、激しい剣幕で詰め寄っている。
「とにかく、このままじゃ納得できない。そのゲイツって男に会って、直接話をつけてやる!」
「頼みますよう、お客様。いつもなら、あと一週間もすればゲイツ様はお帰りになられますから。それまでの宿代は、通常料金の半額にしますから。お願いです。いざこざを起こされると、ここの温泉宿みんな商売ができなくなるんですよう……」
困り切っている温泉宿の主人が、そこまで言ってなだめているのだが、ティナの怒りは更に増す。心底温泉好きのティナは、もう怒り狂っている。
「だったら、なおさら私が話をつけてやる! こんな事、絶対許せない。ゲイツってのが、ちょうど今ここの露天風呂に入ってるって言ってたわね。都合がいいじゃないの。文句言ってやる! ここの温泉全部を一人で独占するなんて……そんな権利、神様にだってないっ!」
シャリーを残して温泉宿の主人を押しのけ、ズカズカと奥へと乗り込んでゆくティナだ。
「うわっ!? お、お客様あ、待って下さあ~いっ!! どうか、どうか穏便に……妻と娘を路頭に迷わせる訳にはいかないんですよう」
主人が必死でティナの腰にしがみつく。
無理もない。生活がかかってるのだ。
ゲイツの不興をかって、潰された温泉宿は幾つもある。
彼は妻子を守るために必死だ。
半泣きになりながら、そのように告げる主人にティナの怒りの爆発も落ち着いてきた。大きく溜息をつくと足を止めた。
「はあっ……わかった。でも、一言どうしても言いたいの。喧嘩ごしにならないようにするから、なんとかゲイツに取り次いでくれないかしら? ダメもとでいいから」
「わ、わかりました。でも、あまり期待なさらないで下さいね」
宿の主人が、ゲイツの入っている奥まった露天風呂へと向かって消えていった。
ティナは再び一つ溜息をつくと、宿の入り口に残してきたシャリーの所へと戻る。
取り残された小さなシャリーは、不安そうにぽつんと立ちつくしていたが、ティナの姿を見てパタパタと駆け寄ってくる。修道服姿の少女の胸に掛けられた小さなロザリオが揺れている。ティナのもとに辿り着くと、少女は小さな腕を回してぎゅっと抱きついてくる。
ティナはそんなシャリーが可愛くて、紺色の髪隠しに包まれたその頭をそっと撫でてやる。子供サイズの修道服をぴったり着ているシャリーは、本当にかわいらしい人形のようである。ティナから身を離すと、シャリーは見上げて不安そうに問いかける。
「ティナさん、『温泉』、入っちゃダメなの?」
もうかなりしゃべるようになっているシャリーだ。ティナはここまでの道中、本当にうれしく驚いたものだ。初めてシャリーに会った時は、この少女は誰にも口を閉ざしていたのだ。笑い声など一度も聞いた事がなかった。大人の男を死ぬほど怖がっていた。
しかし今ではもう、あの時ほど大人の男に対してひどく怯える様子もなくなっていた。突然側に来られるとビクリとするようではあるが、自分で心を決めて接するような場合なら、人見知りのする子供といった程度に収まっている。ずいぶんと強くなっている。ティナと話していると、時折かわいらしい笑い声さえたてるようになってきている。そんな健気な少女を間近に見て、ティナの方が勇気を分けてもらっているような気がしている。
この子には、必ず幸せになってもらいたい。
もっともっと明るく笑って欲しい。
この子の心の痛みを取り除いてやる事は、決して自分にはできない。
それは、この子がこれから生きてゆく中で、その痛みを乗り越えて生きる力を身につけてゆくものなのだ。
形は違えど、誰もがそうして生き抜いている。
この世界は、そうした厳しい世界だ。
しかし、怖い人間だけでなく、
温かい人々がたくさんいるのだという事を見せてあげたい。
人と人との触れ合いの中で、
お互いに生きる元気を分けてもらえるのだと感じて欲しい。
この世界は恐ろしい事だけでなく、
素晴らしい事もたくさんたくさん待っているのだと伝えたい。
いつか、この子は再び悲しい事を背負わなければならない時がくるかもしれない。
だからこそ今、せめて楽しい時間を一緒につくってあげたい。
この子の心が独りで暗い小道に迷いこんだ時、
明るい思い出が道を照らしてくれる事を祈って。
今よりもっと、この子の魂が強く輝く事を願って。
ティナは、そう思わずにはいられない。
心配そうに見詰めるシャリーの目の高さまでしゃがんで、にっこりとするティナ。
「大丈夫。私がなんとかするから、心配しないで」
しかし、この少女が一番心配しているのは、その事ではなかったようだ。
「あのね、私ね……もういいよ。ここまでティナさんと来ただけで楽しかったもの。危ないコトしないで。ね?」
そのシャリーの言葉に、ティナは思わず胸が熱くなってしまう。
あれだけ初めての温泉に入るのを楽しみにしていた女の子なのに、「温泉に入れるかどうか」という心配よりも、ティナの身を心配してくれている。
本当に、シャリーは優しくて素直な、いい子だ。
「(これはもう、何としてでも絶対、この子に温泉に入らせてあげたい)」
ティナはそう思う。
ここなら色んな種類の温泉があって、必ずシャリーも喜んでくれると確信していたのだった。船まで利用して一週間もかけ、ようやく山奥にあるこの秘湯の温泉郷に到着してみたら、こんなトラブルが待ち受けていた。
ゲイツとかいう、ごろつきの親玉が二年ほど前から年に数回、大体二週間ここの温泉郷全部を貸し切り状態にして、一つ残らず湯に入ってゆくのだという。古傷が原因となる関節炎に良く効くので、気に入ったそうだ。しかし金は払わない。温泉宿の者達が断ればひどい報復が待っているという。
温泉郷の入り口付近でガラの悪い男達に警告されたが、叩きのめして強行突破してきたティナだった。
彼女は膝を折り、心配するシャリーをぎゅっと抱いて告げる。
「ちょっとお話してくるだけだから。危ない事なんてしないから。大丈夫だからね。きっと温泉に入れるから」
「うん……」
その時、宿の主人が驚いた顔をしながら戻ってきた。
「あのう、お客様。ゲイツ様が話をしてもいいって……。着替えるのがめんどうだから、お客様も一緒に露天風呂に浸かりながら話を聞こうっておっしゃってます」
「わかった。案内して。この子をお願いできるかしら? シャリー、ちょっとだけ待っててね。すぐに戻ってくるから」
主人はシャリーを妻のいる部屋へ預ける事にし、ティナへ奥の露天風呂までの道順を教える。遠ざかってゆく彼女の姿を見送って、番頭はしきりに首をひねっている。
「どういう風の吹き回しなんだろう? 今までこんな事なかったのになあ。まあ女好きだし、話がしたいってお客様が美人だって伝えたのが効いてるのか。あの女の人、ゲイツにひどい事されなきゃいいんだが……はあっ」
ティナの無事を祈るしかない温泉宿の主人だった。




