エヴァとロメオス Eva and Romeos
日もまだ昇らぬ早朝。
薄暗い小さな洞穴でエヴァが目を覚ますと、横に並んで寝ていたロメオスが、片腕を彼女の枕にしてくれていて、見えぬ目を向けて彼女の顔を見守っていた。
エヴァは、昨夜の夢の続きを見ているかのように、うっとりと横のロメオスに目を向ける。
彼の腕は温かい。
そっと寄り添うように触れる身体も温かい。心地よい。
一緒にくるまっている毛布から覗く彼の胸には、真新しい刀傷が幾つもあり、かさぶたができている。昨日、彼が男に斬りつけられた浅手の傷だ。この自分のために負った傷……。悲しいくらい、うれしい。その一つ一つが、愛しい。この傷の全てを、自分の身体に写し取って刻み込みたいくらいだ。
彼の胸には古い傷跡もある。
一番目立つのは、右上から左下にかけて袈裟懸けに斬られたような大きな傷跡だ。きっと、彼が目を失う以前に身に受けた傷だろう。目が見えなくてもこんなに強い彼に、これほどの傷を負わせたのは、一体どんな男なのだろう? それはどんな闘いだったのだろう? ……きっと、彼の運命を大きく変えるような出来事だったに違いない。もしかしたら、この傷のおかげで、自分は彼に出会う事ができたのかもしれない。
エヴァはなんとなく、その彼の古傷にそっと指で触れてみる。
それに気づいたロメオスが静かに告げる。
「強い男がいた。ライルという名の男だ。その男につけられた傷だ。不思議な男だった。俺が間違ってるといい、俺が正しいのかもしれないとも言った。『お前は、俺と同じだ』と、その男は告げた。『だから、俺がお前を倒す、お前を止める』と言って俺を倒した。その時のあいつからは、憎しみも殺気も感じなかった。その闘いの後、俺の命を救って『これから何があっても、生き抜け』と告げたという。その時は、あいつが何を伝えたかったのかわからなかったが、今は……今は、少しだけわかるような気がする」
しみじみと、ロメオスはつぶやく。
エヴァは静かに微笑んでいる。
「そうだったのかい。そんなちょいと変わった男もいるんだ」
ロメオスは、己に確認するかのように、しっかりとうなずく。
「うむ。昔の俺が、あの男に勝てるはずがなかった。今、それがよくわかる。……どこか芯の強い所を感じる、幼げな顔立ちをした修道女もいた。この傷を手当てしてくれた。俺が『正しい道とは何か』と尋ねたら、それは俺がこれから生きていく中で、俺にとっての真実の答えを見つけてゆくものだと答えた。心の目で見ろと」
そんな話を聞かされたエヴァは、少し小首を傾げた。
「ふうん。その修道女も、ちょいと変わってるね。普通だったら、ああしろ・こうしろってうるさく説教したり、神様にすがれだとか、罪を告白しろだとか、何が楽しいんだか知らないけど、ここぞとばかりに人の弱みにつけこんで洗脳しそうなモンだけどねえ。自分で見つけろって? 厳しいもんだ。……って、あんた。まさか、その修道女の言葉まともに受け取って、『心の目』で見るために自分で目を潰したとかいうんじゃないだろうねえ?」
「うむ。その通りだ」
当然のごとく即答するロメオス。
エヴァの目が、信じられないといったように見開き、唖然としている。
「はあ!? ……あ、あんた! そりゃ、ものの例えってヤツで、そこまでしろなんて言ってる訳じゃないよっ! ったく、つくづくあんたって男は馬鹿だねえ、もう……なんでそういう生き方しかできないんだか」
ロメオスの信じられないくらいクソ真面目な馬鹿さ加減にあきれて、ボヤきながら彼女が半身を起こしかける。すると気配を察したロメオスが、優しくそっと腕を伸ばして彼女の肩を抱き、自らも同じように動きを合わせて半身を起こして、それを手伝ってくれた。
そんな彼の他愛ないない優しさが、やはりエヴァには、うれしい。彼女の身体を買う男どもには、こんな事をしてくれる男は一人もいない。
しかし、その彼の優しさを、今のエヴァはうれしくも寂しく感じられてしまう。
彼女は、予感していたのだ。
これから間もなく起きるであろう事を。
しばし、古びた毛布に二人でくるまりながら、男女は洞穴の冷たい壁に背を預けて身を寄せ合い、お互いの肌のぬくもりに静かな安らぎを見いだしている。
早朝の肌寒い新鮮な空気。
シンと静まりかえった世界。
その沈黙を、女がためらいがちに破った。
話しかけるべき男の顔を、見ようとはせずに。
「行くんだね?」
そっと問いかけるエヴァの声。
二人きりの狭い洞穴に、彼女の声が響く。
彼女の予想通り、ロメオスは軽くうなずいた。
そして、言葉を発しようと口を開こうとする。
その前に、エヴァが再び告げた。
「それは、ダメだ。あたいは行けない。……あんたの気持ち、死にたいくらい、うれしいよ。でもね、あたいはこの『穢れの谷』で骨をうずめようって、決めたんだ。あたいは、もうそんなに長くは生きられない。同じような腐れ病で死んでいった人間を何人も看取ってきたから、わかるんだ。だからこそ、あんたとは行けない。ここに居たい。最期まで、みんなを助けてやりたいんだ。それが、あたいが生きてきた証拠になる。あたいが死んでも、誰かがあたいの名前を憶えていてくれたら、それでいい」
ロメオスは、そんな彼女に一心に告げる。
「もう、お前は充分に苦しんだ。残された生で、一人の女としての幸せを望んだっていい。まあ、俺がお前に、女としての幸せを見せてやれるかどうか、わからないが……なんとか、頑張ってみよう」
エヴァは、静かに何度も首を振る。
「ダメだ。それは違うんだよ。あたいにゃ、わかる。あんたはもう、ここに居ちゃいけないんだ。その時がやって来た。あんたの力が要る人達が、きっと外で待ってる。ここには、あたいの力が要る人達がいる。それに、あたいにとっても、ここの人達が必要なのさ。ここの人達を助ける事で、あたいは生きていけてるんだ。それがなくなったら、あたいは息ができなくなる。水から出た魚と一緒さ。そういう事なんだ」
「エヴァ……」
なおも言いかけるロメオスの言葉を、再び遮るエヴァ。
「それにね。……もう、もらったから。あんたから、『女としての幸せ』ってやつを。墓へ持ち込めきれないくらい、一杯、もらったから。……女はね、いい男とのきれいなきれいな思い出が一つありゃ、それだけで、何があっても、ずいぶん生きられるもんなのさ。未練たらたらの男なんざより、ずっと強い生き物なんだよ。憶えときな」
そう告げると、彼女はさっと立ち上がって、てきぱきと服を着る。
言葉を失っているロメオスをよそに、引っ張り起こして、こつき回して彼に服を着せてやる。昨日彼女が泣き縋って、病気の顔で汚してしまった彼のシャツは着させない。上着だけを着させる。靴まで履かせ、鞘に収められた彼のブロードソードも見栄えのする感じに装着させてやった。あの男達が置いていった金と、少しは日持ちがしそうな食料を選んでまとめ、その袋をロメオスの手に握らせた。
「さてと。最後の仕上げだ」
エヴァは、水で湿らせた布でロメオスの唇と右手を丁寧に拭いてやる。
昨夜は彼に約束させたので、彼の身体で彼女の顔に触れたのは、その部分だけだ。
ロメオスは構わないと言ったが、エヴァは彼があれ以上に自分の顔に触れる事は頑なに拒んだ。この男に自分の病気をうつしたら、彼女は死んでも死にきれない。それだけは絶対に許されない事なのだ。そうしたエヴァの切ない気持ちを、ロメオスは受け入れてくれた。それも、彼の優しさだった。顔に触れてくれなくても、彼の一途な情熱はエヴァに夢のような時間を与えてくれた。
ロメオスの肌が擦りけそうなくらい、時間をかけて念入りにエヴァは拭く。
長い。
あんまりゴシゴシこするものだから、ロメオスの唇は切れそうだ。
「……ちょっと、痛いんだが」
そんな事を彼が告げると、たちまちエヴァが叱りつけてきた。
「これくらい、我慢しな! 全く、どこまで馬鹿な男なんだか。かっこつけやがって。大馬鹿モンだよ、あんたは」
「そうか? あまり人に言われた事はないが」
軽く首をひねるロメオスに、なおも彼の唇の周りを拭いているエヴァが、やれやれと大きな溜息をつく。
「そういうのとは違う。……あんたはね、馬鹿も馬鹿。どっか抜けてる石頭のクソ真面目な大馬鹿! まあ、あたいはそういうの、嫌いじゃないけどさ。中途ハンパに知ったか振りする馬鹿よりゃいい。あの三人の腐った男達みたいな馬鹿よりゃ、ずっとずっといい」
「そうか。馬鹿にも色々あるのだな」
何やら、しきりに感心しているロメオス。そんな様子の彼を見て、思わずエヴァはプッと吹き出してしまった。
「あははははっ、やっぱり馬鹿だ、あんた。……あんたはね、頭のいい馬鹿ってヤツだ。そのせいで遠回りばっかりしてるに違いないよ、きっと。ホントにどっか抜けてるよ。あはははははっ」
エヴァの心からの明るい笑い声が響く。
もう、あの帰り道での笑い声ではない。
これが本当の彼女の笑い声だ。
それを耳にして、ロメオスも微笑む。
これが、彼が取り戻したかった、彼女の気持ちの良い笑い声なのだから。




