心の目 Mind's Eye
そんな思考がロメオスの頭をかすめた時、エヴァの弱々しい声が耳に届いた。
「逃げて……逃げるんだよ。なりふり構わず、謝って逃げるんだ。あたいは、わかってるから。これであんたが逃げても、あたいは馬鹿になんてしない。恨みもしない。あたいは、もう充分うれしかった。あんたみたいな男もいるって、わかっただけでうれしいよ。馬鹿な神様が創ったこの世界も、捨てたモンじゃないって思える。もういいからさ。どうってことないんだ。いつもの事なんだよ……」
その言葉を耳にした瞬間、ロメオスの中で何かが決定的に変わった。心の闇を、心の迷いを圧倒して吹き飛ばす、熱い激情が腹の底から突き上げてくる。
「(できる、できないではないっ!!)」
断言する。
「(俺は、この女を守りたい!! 守りたいんだっ!!!! )」
揺らいで消えかけていた闘志が、体の奥底から、そして心の奥底から灼熱のマグマのように噴き上げて、若きロメオスの身体を突き動かしていた。
ケリが身体に当たった瞬間、その足を利き手の右手で素早く掴む。あらん限りの力を込めて、握りつぶしてゆく。指が男の足にくいこみ、肉に埋め込まれて骨まで達する。男の足の腱が、ロメオスの恐ろしい握力で確実に壊れてゆく。
「うぎゃああっ!」
たまらず、その男は悲鳴をあげて地に転がってもがく。
「この野郎っ!」
別の男が、腰を上げかけたロメオスの右頬に拳をめりこませる。しかしロメオスは怯む事なく、男の拳をまともに顔に受け止め切った。
「(この拳の痛みなど、エヴァの苦しみと比べたら蚊に刺されたよりも軽い!!)」
すかさずロメオスは立ち上がり、頬に当たった拳の位置から推測して、空いている左手で男の喉をがっちりと捕まえた。瞬時にその手に力を込めて締め上げる。締め上げられた男がロメオスの腕に両手をかけても、彼の鋼鉄のような腕はピクリともしない。
そうしてロメオスは仁王立ちになり、右手には足を持った男を逆さにし、左手にはもう一人の男の喉を掴んだまま高々と吊し上げた。喉を掴まれた男は、足が地についていない。足を掴まれた男は宙づりになって悲鳴を上げてもがく。凄まじいまでの腕力だ。残る一人の男が唖然としている。
しばらくそうして吊し上げた後、ロメオスは二人の男を勢いよく地に叩きつけた。二人の身体がその反動で一瞬宙に浮くほどの衝撃だ。呻き声をあげて二人は力なくもがいている。死んではいないが、戦闘不能だ。
信じがたい光景を目の当たりにした残るリーダー格の男は、もう目を皿のようにして驚いている。半身を起こしてその様子を目撃したエヴァも、圧倒されて息を飲み見守るばかりだ。
今までのロメオスは、頭で『守るべき事』を自らに課し、その身体に命令して生きていた。
しかし彼は今、『守りたい』と切に願う者を、ただただ守りたいという熱い想いだけで動いていた。頭ではなく、心の奥底に眠っていた光輝く高貴な魂が、今の彼の身体を突き動かしていた。
そして彼は、残る一人の男にゆらりと歩を進めてゆく。
エヴァに最初に手をかけようとしたリーダー格の男だ。その男はロメオスの迫力に圧倒されながらも、仲間をやられた怒りにまかせて、腰に帯びた広刃の剣を引き抜いて構えた。
それを見たエヴァが叫ぶ。
「剣を抜いたよっ! もういいから、逃げなっ! 殺されるっ! あたいはもう大丈夫だから!」
しかし、ロメオスは彼女の叫びを耳にしても、その歩みを止めない。この男を前にして、今ロメオスの胸には、静かな静かな激しい怒りが燃えている。
この男は、エヴァの事を『激安の売女』と言い放った外道。
必死で人々を支え続けた女を侮辱した人間。
そうした人間が他の人間を虐げてのうのうと生き、エヴァのような人間が病に苦しみ日々の糧に苦しみ、人々のさげすみに苦しみながら生きている。
答えの出ない憤怒が渦巻いて荒れ狂う。
「(貴様なぞに生を赦す神の御心が知れぬ。この女の背負う苦しみを、どうしてこうした人間どもに与えないっ! どうして清らかな心を持つ者に、このような苦しみを背負わせるっ!! ――神よっ! あなたの愛は、なぜ故にこうも不公平なのかっ!? なぜだっ!!!! )」
俺は、この男をこのまま許す訳にはいかない。
背を向ける訳にはいかない。
この男に負ける訳にはいかない。
神よ、あなたの御心は俺にはわからぬ。
あなたの為す事、ことごとく俺にはわからぬ。
今ほど俺は、あなたに対して怒りを覚えた事はない。
この男をこのまま許せと、あなたがおっしゃるのならば、
その優しき慈愛で、この男までも包むとおっしゃるのならば、
神よ……
俺は、あなたを敵に回してでも闘うっ!!!!
溢れ出す闘志のオーラが、彼の周囲の空間を歪めんばかりだ。
対する男も怒りに顔を赤らめている。
(ロメオスの怒りと比べると、格が落ちるが)
「めくらが、いきがりやがって! 俺のかわいい子分達を、よくもっ! こいつでバラバラに刻んでやる!!」
このような男には不釣り合いな程に立派な広刃の剣を振りかざし、ロメオスに飛びかかってきた!
空を切り裂く鋭い音を頼りに、ロメオスは男の初太刀を間一髪でかわす。かがんだ頭上を横殴りの斬撃が走り、ロメオスの髪の一部をはね飛ばした。
今度は縦の一撃だと察知し、左足を軸にして右足を地にすりつけながら身をひねって半回転して避けきった。
(足元に揺らぎが出ないように、無意識のうちに彼はすり足になっている。重心が安定して、反応に隙が出にくくなる。『剣道』の足さばきに似ている)
しかし、目の見えないロメオスの方が圧倒的に不利と言えよう。
腹部を殴られたエヴァが回復して、闘いの場から離れて男の位置や動向を叫んで知らせてくれるので、どうにか致命傷を喰らう事なく避けてしのいでいるが、浅手は幾つも負っている。それでも、数々の実戦に裏打ちされた身のこなしと、常人離れした勘と反応の良さには、目を見張るものがある。
「後ろから来るよっ!」
エヴァの声により、ロメオスは瞬時に後方へ意識を集中して間合いを探る。地を伝う男の踏み込みの振動、荒い息づかい、剣の切っ先から微かに聞こえる空気との摩擦音、男が発する殺気……そうした全ての気配を全身で感じ取る。
ここぞという瞬間、背をぐっとかがめて後ろへ向かって反転する。彼の後頭部に剣撃の風が吹き抜ける感触。その引圧で彼の金髪がふわりと浮き上がる。
大振りの一撃をかわされて前のめりになった男がすれ違う瞬間、ロメオスは狙いやすい胴を狙って拳を突き出した。
……手応えありだ。
しかし、急所のみぞおちや肝臓の部分には決まらなかった。
男は腹部を押さえて間合いを取った。ダメージの回復を図って撹乱くらいの小刻みな攻撃で時間を稼いでいる。なかなか、一筋縄ではいかない相手のようだ。闘い慣れてはいる。普通の人間よりは確実に強いだろう。
「突きだよ!」
「今度は右から来る!」
「左へ回った!」
的確に教えてくれるエヴァの声が頼もしい。
彼女の声、音と振動、気配を頼りに闘い続けるロメオスだ。
やがて時が経つにつれ、彼の動きが確実に良くなってくる。見守るエヴァにも、明らかにそれがわかるくらいだ。男の斬撃が当たらなくなり、ロメオスの拳が少しずつヒットし始めてくる。
呼吸を整える余裕すら生まれてきたロメオス。
「(わかる……わかるぞ。感じる。……見える)」
もう一人の自分が身体から抜け出して、闘いの様子を上から見ているような感覚。
相手の風貌や服装はわからないが、身体の動きを感じ取る事ができる。襲いかかってくる相手の剣の軌跡がわかる。それも、スローモーションのように、ゆっくりと感じられてしまうのだ。
呼吸を整えるほどに、それがますます研ぎ澄まされてゆく。数々の修羅場を切り抜けてきた戦士としての本能が、彼の身体を突き動かす。
そして、決着のつく時がやってきた。
男は使い慣れていない重めの剣を振るっていた事が災いし、息があがっている。
広刃の剣を持つ腕の疲れが激しく、攻撃も鈍くなってきた。
対するロメオスは全く息が切れていない。
不可思議な感覚を全身で探り続けながら、一心不乱に闘い続ける。
男の足がもつれた瞬間、勝敗を決する一撃が入った。
「……そこだ!」
ロメオスの目の覚めるような鮮やかな『裏拳』が一閃し、男の顔面に拳がめり込んだ!
実戦では決め手になりにくい裏拳だ。普通は相手のペースを乱して流れを変えたり、裏拳によって意表を突かれた相手の隙を狙って、後の攻撃につなげる事が目的になる補助的な技だ。腰の入ったストレートやフック、アッパーカットに比べたら威力は劣るし、命中精度も落ちる。そんな裏拳までも、十分な威力を持ってやすやすと相手の顔面に入った。
目が見えないはずの相手から意外な攻撃をもろに受けた男が、その強烈な一撃で鼻と前歯をへし折られて剣を取り落とし、悲鳴をあげて転げ回っている。もう男に闘える余力はない。
そのロメオスの胸のすくような見事な闘い振りを目にしたエヴァが、下着姿である事も忘れて、興奮に息を弾ませながら駆け寄ってくる。
「あんた、すごい、すごいよっ! きっと名のある武将さんだったに違いない。あたいが今まで見た、どんな男よりも強いよっ!! 最後の方なんて、目が見えないなんて信じられないくらいだった」
彼女の心からの賞賛を受けても、ロメオスはなぜか心そこにあらずといった感じだ。拳を握ったり開いたりしながら、つぶやくように告げる。
「ああ、俺にも信じられない。まだ……まだわからぬ。あの感覚は、一体……?」
「まあ、なんだか知らないけどさ。とにかくあんたはすごいって。こんな性根が腐り切った男達とは、月とスッポンだ。おんなじ男で、どうしてこうも違うもんかねえ?」
しみじみ告げると、今度はエヴァは威勢良く声を張り上げて地に転がる男達へ啖呵を切る。
「おらっ! いつまでも寝転がってると、あたいが病気をうつしてやるよっ!! 気が変わらないうちに、身ぐるみ置いて、とっとと行きやがれっ!」
うめき声をあげながらも、男達はズボン以外、全て取り去って地に置いて、身を預け合いながら必死で逃げていった。
そんな男達の姿を、エヴァは腕組みしながら見送って、軽く溜息をつく。
「やれやれだね、全く……んあ!?」
ようやく自分が下着姿である事に気づき、彼女は顔を赤らめて木陰に隠れ、急いで服を身につけた。顔も布で再び覆う。
(ロメオスの目は見えないんだから、そんなに焦る必要はないと思うけどなあ……いてっ。ティナ『あんたはね、女心ってのが全然っ、わかってない! ったく、これだから私が苦労すんのよっ!』ううっ、いたいよう)




