穢れの谷 Dirty Valley
ロメオスが『穢れの谷』で過ごすようになってから、一ヶ月も経とうとしていた。
それは彼にとって、今の自分のような人間が過ごすには、ふさわしい場所なのかもしれないと感じるには充分な時間だった。
『穢れの谷』……それは、未来に希望を失った者達が身を寄せ合って、最期の時を待ちわびる場所。神が与える『死』という慈悲にすがる場所。
腐れ病、流行り病……そうした恐ろしい病気を患った者達。
生まれながらに目がみえない者、両腕がない者、戦禍に巻き込まれて両足を失った者。
そして、身体は大人でも心は幼児のままという者、幻覚や幻聴に心を苛まれている者、ひどく心を病んだ者達。
そうした者達ばかりが、この岩山が両側にそそり立つ谷間に無数に口を開けている洞窟で細々と生をつないでいた。
『穢れの谷』で、ロメオスは様々な人間達に出会った。
彼が今までに接した事のない人間達に。
普段は静かなものだが、突然叫び声や、耳障りなおかしな笑い声が響き渡ったりする。『頭に声が聞こえる』んだそうだ。ボソボソとした呟きや、命令するような声が聞こえるらしい。
理由のよくわからない、取っ組み合いの喧嘩が起きたりする。当事者達をなだめて理由を尋ねても、彼ら自身にもよくわかっていないようだった。
高飛車な態度の女に突然、『護衛しなさい』と命令された事もあった。その女の扱いに慣れている者達が、腰の低い態度でなだめて連れ去ってくれた。
後でエヴァに尋ねたら、
「あの女は、自分が王女だって勘違いしてるのさ」と教えてくれた。
いつも洞窟の壁や地面に絵を描いている男もいた。目の見えぬ彼には、その男が何を描いているのかはわからなかった。他の人間に訊いてみたら、彼らにもわからないとの事だった。
本人に一度尋ねてみたが、鼻歌を歌いながら色石を砕いた泥でペタペタと絵を描き続けるばかりだった。
夜になれば、女の啜り泣きが風に乗って聞こえてくる時もある。
かと思うと、それが今度は急に優しげな子守歌に変わる。
単調な節回しの同じ歌を、何度も何度も繰り返し歌う女の声は、悲しい安らぎを感じた。
最初は戸惑う事ばかりだった。
しかし、彼はもう慣れてきた。
おかしな事も起こるが、その場所は奇妙な平安が支配していた。ある種の、安らぎを彼は感じた。疲れ果てた心に必要な平穏があった。
目の見えぬ彼を、何かと気遣ってくれる人々が多かった。助け合える部分では、お互いに助け合って人々は細々と生きていた。
彼と同じような盲目の老人は、杖を使って探り歩く方法を教えてくれる。もう、かなり上達してきて、彼は杖を持ち一人で出歩けるようにまでなった。
それにエヴァが何かと助けてくれた。
手厳しい助けではあったが。
初めてエヴァと食料を取りに行った時、彼は衝撃を受けたものだ。どこぞの『慈悲のある領主』の城の裏手にあるゴミ溜めのような場所に、家畜が食べるような残飯が決まった時間に放り捨てられる。土にまみれ、変な臭いがするそれらを、競い合って拾い集めてゆくのだ。
呆然としていたロメオスを、エヴァは叱りつけた。
「ほらっ、何ボケボケしてんだいっ! 自分の喰う物くらい、自分で拾うんだよ! 手も足も動くくせしやがって。目が見えないからってね、あたいは容赦しないよっ! 目も見えなくて耳も聞こえなくて、手足が不自由なヤツだっているんだ。甘えるな! 腹の足しにならないプライドなんて捨てな。あたいが拾ったからにゃ、そう簡単にくたばらせやしないよ。あんたの甘ったれの坊ちゃん根性、ここにいる間にあたいが叩き直してやる。おらっ、持て! どんどん袋に詰めるんだよっ」
こつき回されるままに、ロメオスは地に這いつくばって食べ物と呼べない代物を手探りで拾い集めたのだった。
「(エヴァ、か……面白い女だ)」
彼は、つくづくそう思う。
「(口は悪いが、面倒見はいい。多くの者達が、あの女に助けられている。あいつは、そうやって必死で集めた食料を、自分の口に入れるよりも先に皆に分け与えてやっている。俺には、あいつの腹が鳴る音が聞こえてるんだが)」
苦笑する。
そんな彼に、足早に近づいてくる足音が聞こえ、威勢の良いエヴァの声が飛んできた。
「なにニヤニヤしてんだい。気持ち悪いねえ。目が見えないだけかと思ったけど、頭の方もやられちまってるのかい? まあ、ますますココになじんでるって感じで、いいよ。あはははははっ」
そんな事を言って、洞窟の壁に背を預けて座る彼の横に並ぶと、笑う。ヒステリックな笑い声ではない。本当に楽しそうに笑う。
そういう女性だ。
「そうかもしれぬな。フフフッ」
思わず、彼はつられて笑ってしまう。
すると、また『アレ』が頭を張り飛ばしてきた。
スパーンと音高く響き渡る。ハリセンだ。
「笑ってる場合じゃないっての! あんたにゃ、まだまだ見込みがある。目が見えないのに慣れちまえば、ここに居る必要ないんだ。あたいがそれまで面倒みてやるから、とっとと出ていきな。腐れ病がうつらないようにしてやるから。いい、あんたはね、こんな所にずっと居ていい人間じゃないんだ。わかったね?」
ロメオスはうつむいて、沈んだ声でつぶやく。
「俺に、何の見込みがあると言うのだ? こんな俺に一体、何ができる?」
再びハリセンが彼の後頭部を襲った。(先程より、痛い!)
彼の顔を、彼女は正面からぐっと見据える。エヴァは顔をほとんど布で覆っているが、目と口の所だけ出している。彼女のその目が、キラリと光る。声を落として告げる。
「あたいの目は節穴じゃないよ。なめるな。あんたの身のこなし、ただ者じゃない。もう一人で歩けるくらいにまでなってる。普通の人間より、勘がケタ違いにいい。身体も鍛え上げてある。そんでもって身体にある幾つもの刀傷に、右手のタコ。畑仕事でできたタコじゃない。剣ダコだ。あんたは、たくさんの修羅場を剣で闘ってきた男だ。それに、もったいぶった話しぶり。身分が高い人間のハズさ。自分の事だけじゃなく、もっと大きな事を考えてきた人間だ。あんたは、あたい達とは違う」
告げてエヴァは立ち上がると、さらに言葉を重ねる。
「あんたはね、ここに居ていい人間じゃない。だから、あたいはあんたの名前は訊かないんだ。死んでいくしかない人間の名前なら、あたいは憶えてやる。あたいが生きているうちは、せめて名前だけでも忘れないようにしてやる。でも、あんたは違う。ここに居た事を、あんたが後で恥じるかもしれないから、あたいはあんたの名前は訊かない。このハリセンを賭けてもいい。あんたはまた立ち上がる」
「お前がその賭けに勝っても、俺には差し出す物はないぞ。それに、俺が賭けに勝ったとしても、そんな物はいらぬ。俺には分の悪い賭けだな」
すると、またも威勢良く告げるエヴァの声が響き渡る。
「言ってくれるじゃないのさ。はっ、じゃあ、あたいが賭けに勝ったら、あんたのコレでももらおうかねえ?」
彼女はロメオスの股間をハリセンで軽く叩く。
「うおっ!?」
ビクリと驚くロメオス。
「あんただったら、あいつらと違って長持ちしそうだ。あははははっ」
高笑いしながら、彼女は立ち去っていった。
「(なんという……あれでも女か!?)」
あっけらかんとしたエヴァに、唖然としているロメオスだ。
しかし、彼女が女だという事を……
強くも弱くもある女性だという事を、彼は間もなく知る事になる。




