二人 Partner
眼下に広がる新緑の山々が連なる綺麗な景色をのんびりと眺めながら、ライルとティナが肩を並べて露天風呂に浸かっている。
ホークスの紹介したこじんまりとした温泉宿は、男湯も女湯もない、混浴の温泉であった。この時期、宿に他の客も無く、四人の貸し切り状態である。まずは女性二人が露天風呂に入り、あとで男達が入った。ホークスは湯船から上がったが、ライルは傷を癒すため、そのままのんびりと浸かり続けていた。
すると、ティナが前をタオルで隠しながら、そっと入ってきた。温泉というものが初めての経験というアリアは、ホークスに連れられて、周囲に広がる温泉地独特の珍しい光景をあちこち紹介してもらっているそうだ。ティナはまたのんびり温泉に浸かりたくなって、二人と別れてきたという。
少し白濁した湯であった。
入ってしまえば、湯の下の身体は相手には見えない。
珍しい混浴であったが、こういう事も関係しているのかもしれない。髪をまとめて結い上げているティナの、湯でほんのりと上気したうなじが色っぽい。誰かが入ってくる気配にライルが見やった時、目に飛び込んできたティナの裸体は美しかった。白濁した湯の下に、その裸体を想像してしまいそうになるので、ライルは無理矢理また風景を遠く眺めている。ティナも近くに寄ってきて、同じように景色を眺めてのんびりしている。
「静かね」
「ああ」
「なんか、現実じゃないみたい」
「ほんとだな。なんか俺、いつもどこか、張りつめてた気がする。こんな時間が同じように流れてるなんて、信じられないな」
ライルは、ぐっと手を伸ばして背を逸らし、青空を眺める。その瞳は、穏やかだった。重荷から解放されたような、そんな気がするライルだった。
「フフッ。傷だらけ。ライルって」
胸のあたりまで白い湯からライルの体が出ている。ティナはそのライルの体中の傷を眺めて、静かに微笑む。
「かなり無茶して闘ってたからな」
「この傷は?」
ライルの左腕の上の方にある、ミミズ腫れのように広がる痕が気になったティナだ。
「ああ、これか。お前と最初に闘った時の火傷の跡だ。……懐かしいな」
そっとライルは、その左の二の腕の火傷の痕に手を伸ばす。
すると、ティナもその傷跡に指でそっと触れてきた。
彼女は目を伏せ、すまなそうな表情をする。
「熱くて痛かったでしょ? ごめんね」
「夢中だったんで、憶えてねえよ。あの時ゃ、お互い傭兵やってたんだ。お前が謝る事はねえさ。俺も、お前のサラマンダーを傷つけてるしよ。フレキは強かったぜ。お互い様だ。それに……この傷は、結構気に入ってるんだ。お前との、大事な思い出が詰まってる」
顔を向けにっこりと、ライルはこの相棒の女性に笑いかける。あの闘いがあったから、今のこの関係がある。不思議なものだ。
そんな彼の言葉を耳にして、ティナはうれしそうに、ほんのり上気した頬をさらに赤らめている。
「俺の体の全部の傷跡。こいつらが、今まで俺が生きてきた道を思い出させてくれる。大事な事を、忘れないようにさせてくれる。……この傷もな」
ライルは、胸にある別の刺し傷をそっと撫でる。
「その傷は?」ティナがそっと問いかける。
「親父に刺された傷跡さ……」
寂しげに、ライルはそっとつぶやく。
ティナは、そんなライルをまじまじと見詰める。子供のライルを襲った、彼のその後の人生を変えてしまった事件の事が、ティナの胸に浮かんでくる。麻薬の禁断症状に襲われた父親が、ライルの母親と妹を刺し殺し、それを止めようとしたライルが父親を突き飛ばした。その先には階段があり、転がり落ちた父親の首には手にしていたはずの刃物が突き刺さって事切れていた。『父親殺し』……そして、母も妹も守れなかった。
それも自分のせいだと一人苦しんで生きてきたライルである。それは時には、正気を失ってしまうほど激しく、ライルの心を苦しめていたのだった。
「前は、この傷を見る度、悲しくなった。親殺しの自分に嫌気がさした。助けてくれなかった神様に、怒りがこみ上げてきた。でも……それも終わったみてえだ。この傷があったから、みんなに出会えた。お前に会う事ができた。そのために、この傷があるんだって、やっと思えるようになってきた。でもな、まだ時々思う時がある。親父は本当に、俺の事を好きだったのかなって。恨んでねえかなってよ……。俺はこのまま、俺自身を許していいんだろうかってよ……」
ライルは、遙か遠くを見詰めている。
哀しげに、そして寂しげに。
ティナがそっと囁く。
「きっと、あなたのお父さんもわかってくれてると思う。私は、そう思う」
「そうかなあ……」
「そうよ。きっと」
「だったら……うれしいんだけどよ」
目をふせるライルに、彼女は一心に告げる。
彼女にとっても、孤独な自分の心にずっと温かな光を与えてくれていた、この男に。
これが自分がしてあげられる、おそらくは最後の、彼が必要とする言葉。
「ライルのお父さんは、きっとあなたの事、愛してたと思う。あれは、あの薬のせい。あなたのせいでも、あなたのお父さんのせいでもない。これで、あなたとお父さんを苦しめてた薬は消え去った。お父さんも、よくやってくれたって、あなたの事誉めてるわ」
「……ありがとよ、ティナ」
もう何度、この言葉を、この女性に、この相棒に、告げた事だろう?
心が折れそうな時、何度、必要な助けを自分に与えてくれた事だろう?
ライルは遠くを見詰めたまま、後から後から静かに涙を流している。そんなライルの傍らに、そっとティナが寄ってくる。肩と体が、お互い触れ合う。その感触に、二人とも穏やかな安らぎを感じながら、きれいな風景をただただ眺めている。
やがて、ティナがそっと口を開いた。
「今度は、私の話、聞いてくれる?」
ライルがティナをまじまじと見詰める。
「そういえば、お前の事は俺、あんまり知らねえな。どこで生まれたとか、どこで育ったとか、家族の事とか、なんで精霊が使えるのか、どうして傭兵をやってたのかって事、全然聞いてなかった」
よく考えてみると、ティナの事をライルはあまり尋ねたことがなかった。ティナも、自分からそうした事をライルに話すことは一度もなかった。
「あんまり、言いたくなかったの。でも、今はなんか、あなたに聞いて欲しい。……あのね、私は大地の精霊使いの父と、駆け落ちした修道女の母との間に生まれたの。両親は、人目を避けて、深い森の中で暮らしていた。私はそこで生まれ育った。私、父の才能を受け継いだみたいで、炎の精霊使いの素質があったの。父はかなり有名な精霊使いだったみたい。私に精霊達を操る手ほどきをしてくれたのも、父だった」
「そうだったのか。それでサラマンダー達が使えるんだな?」
ライルはうなずく。精霊使いの素質は、血筋で受け継がれるものだと聞いた事があった。ティナが自在に炎の精霊達を操れるのも、父親が精霊使いで、しかも子供の頃から訓練を積んでいたのだとすれば、納得がいく。
ティナも軽くうなずく。
「うん。近くに人間の友達はいなかったけど、私は父と母と一緒で、幸せだった。それに、深い森には精霊達がたくさんいるの。木の精霊達とは、仲が良かったかな? よくおしゃべりしてたっけ。私が炎の精霊使いの素質を持ってても、全然嫌そうにしなかった。普通は、木の精霊は炎を怖がるんだけどね。それで、私が十四歳になった時、このサラマンダー達と、契約を交わしたの。その時に、母からもらったのがこのピアス。今でも、その時のうれしかった気持ち、憶えてる。とても誇らしかった……」
その時の事を思い出しているのだろう。彼女の瞳が懐かしげに輝いている。
しかし、やがて彼女は悲しげに目をふせた。
「でも、それも長くは続かなかった。ある日、父を捜し当てた旧友が、助けを求めてやってきたの。父は迷ったけど、再び表に出て闘いを始めた。そしてある日、父が厳しい顔をして帰ってきた。すぐにここを離れろと言って……でも、すぐ近くまで追っ手が迫っていた。父と母は、私を裏から逃がして、そいつらと闘って……あとで家に帰ってきたら、父も母も殺されていた……」
「……そうか」
ライルはただ、静かに彼女の言葉に耳を傾けている。
一心に、聞き入っている。
それが、彼の優しさだった。
ティナは再び顔を上げ、遠い目をして告げる。
「それから、私のあての無い旅が始まった。生活費を稼ぐため、傭兵になった。父と母を殺した男達のような人間には、絶対に負けたくないって、無理して生きてた。男には絶対に負けないって、意地張ってた。そんな頃に……あなたに出会った」
ティナは、そっとライルを見詰める。
その瞳は、何かを訴えるかのように潤んでいる。
ライルは改めて思う……
ティナは美しい。
その魂が、きれいだ。
ひたむきに自分を見詰める男の視線に、女は軽くうなずく。二人の唇がどちらからともなく近づき、お互い目を閉じて口づけを交わし合う。
ライルがティナの肩をそっと抱く。ティナも、ライルの胸に腕を回してくる。彼女の身体は、驚く程に柔らかい。ライルが少しでも力を加えたら、壊れてしまいそうな感じがした。だから、細心の注意を払って優しく触れていた。
ティナは、ライルの胸がこれ程広いものであった事に、改めて少し驚いた。ライルの身体は堅く厚い筋肉に覆われていて、いつまでも身体を預けていたくなるような、心が落ち着くのを感じる感触である。
やがてお互いそっと身を離す。
「ありがとう。ここまで、あなたの側に居させてくれて。あなたについて行ったから、私は、本当の私に会えた気がするの。あなたに出会って、みんなに出会って、一緒にこの旅をして。一人でいた頃より、ずっとずっと気楽に、肩の力を抜いて自然に振舞えるようになった。甘えられた。これが本当の私だったんだって、わかったの。本当に、あなたと、みんなのおかげ」
微笑みながらライルを見詰めていたティナであったが、やがて哀しげに視線を落として静かにライルに告げる。
「アリアを、大事にしなさいね」
「ティナ……?」
「私はいいの。わかってるから……。だから、もうこれでいいの。これでやっと自分の気持ちに区切りがついた。ありがと、ライル」
「それは、どういう……?」
「ごまかさないで。こんな時くらい、ね……」
そっとティナはライルにキスしてくる。
閉じたティナの瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
「(これでいいの。もう、これでいい……。彼が本当の意味で必要としてるのは、アリア。アリアも、彼の事を必要としてる。彼には、もう私の力は必要ない。私にも、もう彼は必要じゃない……多分)」
やがてティナはゆっくりとライルから身を離した。
かすれた声でライルがうめく。
「ティナ……俺は、俺は……」
言いかける彼の言葉を、ティナは遮る。
「それ以上はダメ。言わないで。私が勝手にあなたについて行って、勝手に好きになって、勝手に離れるだけ……あなたがそんな風に思う必要なんてない。あなたにそんな風に思われたら、私は耐えきれないほど苦しい。だから……だから、もう何も言わないで」
再びティナがライルにそっと口づけしてくる。
間近に迫る別れの時を予感しながら。




