第二十三話 勝ち筋
「はぁ、はぁ……」
息を切らしながら、僕はアノーラを睨みつけていた。
焦りだけが募っていく。
僕のパンチはことごとく外され、アノーラのパンチだけが一方的に当たる。
まるで、大人と子供が戦っているかのようだった。
拳を返すたびに躱され、次の動きを塞がれる。
一手ごとに、逃げ道を奪われていく。
(男なのに、負けるのか……?)
背筋を冷たいものが走った。
認めたくない現実が、僕の表情を曇らせていく。
そして最後のパンチの応酬が途切れた瞬間、インターバルを告げるブザーが鳴った。
「……」
しばらくして、再びブザーが鳴る。
僕はアノーラと向き合った。
またパンチを外される。
また一方的に打たれる。
そして、ブザーが鳴る。
同じことを何度も繰り返した。
八度目のブザーが鳴った頃には、僕とアノーラのスパーリングは終わっていた。
「……」
沈黙だけが残る。
頭の中が真っ白だった。
悔しいはずなのに、言葉が出てこない。
僕は静かに瞳を閉じ、天井を仰ぐように顔を上げた。
「完敗だな」
ようやく出てきたのは、その一言だった。
言い訳の余地などない。
僕は目の前の現実を、そのまま受け入れた。
「見事にやられたな」
背後から、ハチローさんの声が聞こえた。
「で、どうだ? リングクイーンに打ち負かされた感想は」
僕はゆっくりと目を開いた。
不思議なほど、心は静かだった。
「自分の実力を知れた」
ハチローさんへ振り返る。
「僕は、自分が戦えるものだと思い込んでた。けど、今のスパーで目が覚めた」
そして、リングの上に立つアノーラへ視線を向ける。
「ハチローさん……すごいね、彼女」
「まあな」
完膚なきまでに打ちのめされた。
その事実は変わらない。
それでも、目を背けたいとは思わなかった。
(ああ……)
(これを、糧にしなければ……)
知らなかったものを知った。
届かないと思っていた場所が、初めて形を持って見えた。
僕はいつの間にか、敗北を素直に受け入れていた。
「……どうした?」
ハチローさんが僕の顔を覗き込む。
「やけにスッキリしたって顔だな」
「したよ。とっても」
僕は迷わず答えた。
「僕、まだまだ弱いままだったんだって分かってさ」
負けたことは悔しい。
今すぐにでも、もう一度戦いたい。
それなのに。
「悔しいのに、嬉しいんだ」
ラウズに敗れた時とは違う。
晴れやかな爽快感が、僕の全身を駆け巡っていた。
スパーリングの練習を終え、僕はリングを降りた。
僕はハチローさんと、次の試合に向けた対策について話し始める。
「ハチローさん、アイスマンってアノーラより強いのか?」
「強い」
ハチローは即答した。
「厳しいな、そうなると。
本当に勝てるのか?」
ハチローはゆっくりと首を横に振る。
「難しいな。
だが、勝算もなくはない」
「勝算?」
「フラッガは一見、冷徹に試合を制するようにも見える。
だが、ここぞという時にところどころ弱さを見せる選手でもある」
「弱さってのは、つまり?」
「メンタル面からくるものだろうな。
おそらく、追い詰められると脆くなっていくタイプだ」
「なるほど」
僕はハチローの言う『弱さ』の正体に、なんとなく見当がついていた。
「つまり、揺さぶりが重要になるってことか」
ハチローは僕の言葉を聞くと、一瞬だけ間を置いて答えた。
「勘違いするな。
技術的な揺さぶりはアイツには通じない」
「え、そうなの?」
「重要なのは予想外の一発を当てることだ。
それさえできれば、隙を突くこともできる」
「なるほど」
僕は軽く拳を振りながら、ハチローの言葉に耳を傾けた。
「ある意味では一発勝負ってことだな」
「そうだ」
ハチローは頷きながら続けた。
「その一瞬を逃せば、お前の勝ちの目はほぼない」
「なるほど。
だったら尚更負けられねえな」
僕はニヤリと笑みをこぼした。
「強いヤツが相手なんだろ?
負けるかもしれない強敵。
そういう相手に頭使って勝ちにいく――。
正直、ワクワクしてるよ。ハチローさん」
「楽しみなのか、フラッガとの戦いが?」
「ああ」
僕は右フックを鋭く振り抜いた。
「喧嘩より数段面白くなりそうだ」
それを見たハチローは、大きく高笑いした。
「わーっはっはっは!!!
案外戦闘狂だな、お前は!」
「そりゃそうだろ。
頭使った喧嘩以上に楽しいものなんて、この世にあるのか?」
「いいや、ねえかもな」
ハチローはやれやれといった表情で僕を見つめた。
「悪いが、この戦い負ける気なんて毛頭ないからな、ハチローさん。
勝ちに行くぜ、本気で……!」
「じゃあなおのこと、基礎をきっちりやらねえとな」
ハチローは拳を強く握り締めた。
フラッガ戦へ向け、トレーナーとしての覚悟を新たにするように。




