第二十二話 技術の壁
翌朝。
昨日の疲れを身体中に引きずりながら、僕は地下鉄でスナガ駅へ向かっていた。
「まさか、こんなに早く二度目が来るとはな……」
次の試合までは定期的にバロットジムへ通い、実戦形式の練習を積む。
昨日、ハチローさんはそう言っていた。
思わず欠伸が漏れる。
その一方で、視線は自然と車内を見渡していた。
スラム育ちの癖は、そう簡単には抜けない。
(ハチローさんは、もう着いてるんだっけ)
左拳を握る。
一昨日、ラウズに何度も叩き潰された拳だった。
(次は勝ちてぇ……)
そう思う。
だが、
(一日や二日で……ラウズは超えられねぇ)
その現実だけは嫌というほど分かっていた。
地下鉄は揺れ続ける。
考え事をしているうちに、車内アナウンスが流れた。
『まもなく、スナガ。スナガです』
気付けば目的地へ着いていた。
◇
駅を出る。
人混みを抜けた先に、巨大な建物が姿を現す。
バロットジム。
初めて足を踏み入れたあの日、僕は完膚なきまでに叩きのめされた。
「よし。」
「やるか。」
小さく気合いを入れ、扉を開く。
熱気が一気に押し寄せる。
サンドバッグを打つ音。
リングを叩く足音。
選手たちの怒号。
一昨日と変わらない空気だった。
「おっ、来たか!」
真っ先に駆け寄ってきたのはハチローだった。
「ハチローさん。」
「早速で悪いが、さっさと着替えてこい。」
「もう練習か?」
「ああ。」
ハチローは短く頷く。
「今日はお前にコーチがつく。」
「コーチ?」
「特別だ。」
それだけ言うと、ハチローはリングへ向かって歩いていった。
「……?」
理由も分からないまま更衣室で着替えを済ませる。
そしてリングへ戻った、その時だった。
僕の前に、一人の男が立っていた。
見覚えがある。
忘れるはずがない。
昨日、僕を完膚なきまでに叩きのめした男。
ラウズだった。
「よう、小僧。」
低く落ち着いた声。
「元気そうだな。」
「ラ、ラウズ……!」
ラウズはじろりと僕を見る。
「“さん”を付けろ。」
短く言い放つ。
「今日からお前の技術指導を任された。」
一歩近づく。
「よろしくな。」
僕はいつでも動けるよう全身に力を張り巡らせ、ラウズを鋭く睨みつけていた。
「そう睨むな、リングチャンピオン。お前にぴったりの練習相手を連れてきた」
ラウズはそう言うと、リングの外へ視線を向けた。
その先から、一人の女性が静かにリングへ上がってくる。
宝石の散りばめられたティアラを身につけたその姿には、どこか気品が漂っていた。
「紹介しよう。ジェムファイトのリングクイーン、『アノーラ・メヌスェン』だ」
「女だと?」
僕はアノーラを鋭く見据える。
「どこが僕にぴったりなんだ?」
「今に分かる」
ラウズはそれだけ言い残すと、無表情のままリング中央を後にした。
⸻
「ハチローさん、ジェムファイトって何だ?」
「知らねぇのか。やれやれ……」
ハチローは呆れたようにため息をつく。
「ジェムファイトってのは、女性ニューボクサーたちが競う大会だ。このアノーラはそこで結果を残してる技巧派の選手でな。手数と組み立ての巧さには定評がある」
「なるほど、実績はあるのか」
僕は鼻を鳴らした。
「けど、僕には勝てないだろ」
しかし、ハチローは眉をひそめる。
「侮るな。今のお前じゃ、いなされるぞ」
その一言には妙な重みがあった。
僕はハチローの表情がわずかに強張ったことを見逃さなかった。
僕とアノーラを残し、他の者たちはリングを降りていく。
リングに静寂が訪れる。
僕はアノーラの一挙手一投足を目で追っていた。
無駄のない立ち姿。
呼吸。
歩幅。
その何気ない所作の一つひとつが、不思議と目を引く。
(なんだ、こいつ……?)
(今までのニューボクサーと違う……?)
そしてブザーが鳴る。
僕とアノーラが向かい合う。
軽く頬を払われたような感覚。
「うぐっ!」
遅れて衝撃が走る。
僕は弾かれた顔を戻す。
(……今のは?)
そう思った時には、アノーラはすでに僕の懐へ入り込んでいた。
「ぐうっ!」
右アッパーが顎を正確に突き上げる。
(速い……)
(いや、違う……)
(目で追えないんじゃない)
(動きに無駄がなさすぎる……!)
僕は即座に左ストレートを放つ。
しかし、アノーラは紙一重でかわす。
(パンチ一つひとつは重くない。
けど——)
(全ての動きが正確で、パンチが当たらない……!)
僕は正面からの攻防では分が悪いと瞬時に判断した。
だからこそ、あえてガードを固める。
まずは受ける。
相手の癖を見極める。
「聞いていた通り、手詰まりだと亀になるようね」
アノーラは両肘を締めると、淀みなく拳を打ち込み始めた。
ガードの上から、小刻みな衝撃が次々と伝わる。
(やはり弱点はパンチ力だな)
僕は静かに機をうかがう。
そして、上体を捻りながら右手でアノーラの左ジャブを弾いた。
「!」
「隙だらけだぜ」
僕は右ストレートを屈んでかわし、その勢いのまま左フックをこめかみへ振り抜く。
(決まる……!)
そう確信した。
決められると確信していた。
しかし。
アノーラはわずかに上体を引くだけで僕のフックを外す。
そして、前のめりになった僕の右こめかみへ、丁寧に左フックを添えていた。
(なっ……!?)
僕の身体がぐらりと揺れる。
体勢を崩しながらも、僕は必死にアノーラを目で追った。
僕はこの時、初めて体験した。
ニューボクシングの『技術の壁』を。




