第二十話 拳の熱
事情聴取は二時間にも及んだ。
ようやく解放された僕は、重い足取りで帰路につく。
……散々な一日だった。
ラウズとのスパー。
フェイル・デバイス。
病院。
朝から晩まで、頭も身体も休まる暇がない。
「……チッ。」
思わず舌打ちする。
せっかく掴みかけていた感覚まで、全部吹き飛んでしまった。
それでも——
やることだけは決まっている。
(キーパンチ……。)
(まだ足りねぇ。)
人気のないアルグジムを見上げる。
鍵は閉まっていた。
「しゃあねぇか。」
踵を返す。
身体は重い。
それなのに、
胸の奥だけが妙に熱かった。
まるで、
「早く続きをやれ。」
そう急かされているようだった。
◇
翌朝。
「いるか、リガ。」
聞き慣れた低い声。
眠い目を擦りながら玄関を開ける。
「……ハチローか。」
腕を組んだハチローが立っていた。
「準備しろ。」
「ジムへ行くぞ。」
「……今から?」
「練習だ。」
それだけ言うと、
ハチローはさっさと歩き始める。
「おい!」
「ちょっと待てって!」
慌てて支度を済ませ、
僕はその背中を追い掛けた。
◇
「はぁ……。」
「はぁ……。」
ようやく追いつく。
「急すぎんだよ……。」
ハチローは前を向いたまま言う。
「俺が呼ばなかったら。」
少しだけ間を置く。
「一人で無茶してただろ。」
僕は肩をすくめた。
「するか。」
短く返す。
ハチローは鼻で笑った。
「どうだかな。」
それ以上は何も言わない。
互いに、それで十分だった。
◇
装着マシンの前へ立つ。
黒いバンテージが機械音とともに腕へ巻き付いていく。
「まずはサンドバッグだ。」
「身体を起こせ。」
「はいはい。」
サンドバッグの前へ立つ。
拳を握る。
ドンッ。
(喧嘩は知ってる。)
ドンッ。
(だけど。)
ドンッ。
(ニューボクシングは違う。)
息を整える。
拳を見る。
(喧嘩は。)
(生きるか死ぬか。)
(ニューボクシングは——。)
拳を振り抜く。
ドゴォンッ!!
(研ぎ澄まされた者同士の。)
一歩踏み込む。
(駆け引きだ。)
重い音がジムへ響いた。
ハチローは黙って見ている。
教えない。
今はまだ、
考えさせる時間だからだ。
僕も分かっていた。
だから殴る。
もう一発。
さらに一発。
狙うのは一つ。
キーパンチ。
その答えだけだった。
「随分熱心だな。」
ハチローが静かに口を開く。
「何か気になることでもあるのか。」
「……。」
返事はしない。
拳だけが答える。
ドンッ。
(答えを見つけたい。)
ドンッ。
(勝つための答えを。)
ハチローは何も言わなかった。
ただ、
僕の拳だけを見つめていた。
◇
無心——
いや。
違う。
今の僕は、
拳の先にある何かを追い掛け続けていた。
ラウズとのスパー。
フェイル・デバイス。
キーパンチ。
何度も組み立て、
何度も壊す。
拳を振るたび、
少しずつ輪郭だけが見え始めていた。
「……おい。」
低い声だった。
「その拳。」
少し間が空く。
「見た目より重たそうやな。」
拳が止まる。
静かに振り返る。
そこには、
大柄な男が立っていた。
肩。
腕。
拳。
どれも規格外。
そして——
燃えている。
「誰だ。」
男は口元だけで笑う。
「なんや。」
「知らん顔やな。」
一歩近付く。
「“ボンバー”ロッズ。」
「名前ぁ覚えんでええ。」
ニヤリと笑う。
「どうせ拳で覚えることになる。」
……
思わず笑ってしまった。
「何がおかしい。」
「いや。」
「お前。」
「面白いな。」
ロッズの眉が少しだけ動く。
「まだ何もしてへんで?」
「分かる。」
僕は拳を見る。
「強い奴には。」
「強い力が宿る。」
「僕には、それが見える。」
数秒。
沈黙。
そして——
「ぶはははははッ!!」
ロッズは腹を抱えて笑い出した。
「なんやそれ!」
「力が見えるて!」
「おもろいやっちゃなぁ、お前!」
涙を拭きながら笑う。
「気に入ったわ!」
「そんな変な奴、初めてや!」
「そこまでだ。」
ハチローの一言で空気が変わる。
笑いが止まる。
「仮にも。」
「これから拳を交える相手だ。」
二人を見回す。
「最低限の敬意くらい払え。」
短い。
だが十分だった。
僕とロッズは自然に距離を取る。
視線が交わる。
数秒。
やがてロッズが笑った。
「ほな、決着つけよか。」
「どっちの拳が上か。」
「白黒はっきりさせようや。」
僕も笑う。
「望むところだ。」
「ちょうど試したいこともあった。」
ロッズの笑みが少し消える。
「……ええ目や。」
そして、
闘志を宿した目で僕を見据えた。
「その目——ぶっ壊してやる。」
僕は拳を構える。
「壊れるのは。」
一歩踏み込む。
「どっちだろうな。」
「始めろ。」
ハチローの声が響く。
次の瞬間、
二人は同時に床を蹴った。
拳と拳。
互いの闘志が、
真正面から激突した。




