2026年、8月のチョコレート
「お、そうだ、お前食事の前にコレ食ってみろ」
そう言ってアンソニーが差し出したのは、見覚えのある一枚の板チョコだった。
「……だから、こういうのは全部、食べても味がしないって何度も言ってるでしょ?」
「まあ試してみろ、100回食べて味がなくとも、101回目は味がするかもしれないぞ……?」
相変わらず強引だ。
「何その謎理論……」
ブツブツ言いながらも、私は渡された板チョコの銀紙を指で摘んで剥ぐ。
間違いなく、ベルリンへの車中であの情報将校に手渡されたものと同じだった。
「……私は甘い物はそれしか受け付けなくてね」
「へぇ……」
商品名がスイス語で書かれている。
シュプリングリ、と読むのだろうか。
あの時は暗くて揺れる車中で、読む気さえ起きなかったけれど。
「じゃ、私はこれからミサがあるからもう行くぞ……味の感想は後から報告しろ」
「……任務なの?」
面倒くさいなと思いながらも、仕方なく少しだけ齧った。
味がした。
「……なんで!?」
驚き過ぎて、私は言葉を失う。
80年前にはただの苦味しか感じなかった舌に、今はそれに加えてチョコレートの甘みがはっきりと感じられるのだ。
「嘘でしょ……だって、私の舌は……」
「アイリス、ほら……鏡で見てみて」
メリッサが手鏡を渡してくれる。
覗き込んだ鏡の中の舌は、桃色だった。
「……え? えっ?!」
何回見ても、黒く焦げていたはずの舌は、生まれた時からそうだったかのような、桃色にしか見えない。
「これ……どういう事……?」
「……マキナがね、アイリスから出て行く時に、元に戻してくれたんだよ」
少し目を赤くしたメリッサが説明してくれる。
だけど、全然分からない----。
「えーと……マキナ……って、誰……? いや、惑星機構のAIのマキナなら知ってるけど……? 私から出たって、どういう意味……?!」
「……マキナは、私の……友達だったの」
メリッサにそんな友達がいた事に驚くが、その友達がどうして私の中にいたのか、さっぱり分からない。
でも、漠然とした喪失感は確かに感じる。
(この感じ……私を作っていた私の一部が、消えてしまったんだ……多分、永遠に……)
それが何かは、もう私には分からない。
ただ、メリッサが目に涙を溜めているのが、答えなのだろう。
そういえば、どうして私の舌が黒焦げだったのかも思い出せない。
(とても大事な事だった気がするのに、何で思い出せないの……?)
無性に悲しい気持ちと、何処か解放されたような相反する気持ちで、胸がつまってしまう。
(何だろう、この気持ち……?)
ただ、ひたすら温かいものだけが私の中に残っていた。
(さよならするのは悲しいけど、でも……会えて良かった……)
それを伝えたくて、メリッサの涙を指で掬い取ってやった。
「今度は、私、貴女のおかげでマキナにちゃんとさよならを言えたよ……」
「……そうなんだ?」
マキナ。
懐かしい響き。
メリッサが大切にしていた誰か。
私の知らない、私の一部だった存在----。
それを反芻するようにして、私はもう一口チョコレートを齧った。
やっぱり少し----苦かった。




