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終章 君の声が聴こえる

終章 君の声が聴こえる


 (きた)(かた)が語り終わった頃、すずりの中の墨もまた最後のしずくとなっていた。


「どうもありがとうございました」


 筆を置き、僧は合掌した。


「……それから後は、申し上げた通りですわ。数年後、建春門院(けんしゅんもんいん)様がお亡くなりになられて、後白河法皇ごしらかわほうおう様と平清盛(たいらのきよもり)様は、表立って対立なさるようになりました。父の藤原成親(ふじわらのなりちか)は法皇様を(ほう)じて、平家一門に反旗を翻し、失敗して捕えられ……流刑地で殺されました」


 先ほどまで幸せそうに、思い出を語っていた御簾(みす)の奥の北の方の声が、つらい記憶に震える。


「それからまもなく、重盛(しげもり)様はご病気になられて、まるで一門の行く末をご存じだったかのように、自ら治療を拒まれてお亡くなりになりました。その後は重盛様の弟の宗盛(むねもり)様が平家一門の棟梁(とうりょう)となられて、……維盛(これもり)様を始めとした重盛様のお子達は、だんだん一門の中でも孤立していきました。その原因の一つは私の父、成親と親交があったため。でも、維盛様は私を責めるようなことは何一つおっしゃいませんでした。文覚(もんがく)様のおっしゃった通り、維盛様は平家一門の棟梁となられるには、お優し過ぎたのかもしれませんね」


 その話は既に、二人の馴れ初めが語られる前に、僧が聞かされたことだった。


 維盛と若葉姫の間には、一男一女が生まれた。子ども達の乳母(めのと)には重景(しげかげ)の妻となった兵衛佐(ひょうえのすけ)がついた。元服した石童丸(いしどうまる)も、重盛生前と変わりなく維盛に献身的に仕え、穏やかな時間を維盛は送っていた。


 祖父の跡を継ぐ一門の棟梁にはなれなかったが、愛する妻と子らに囲まれ、忠実な配下に恵まれた日々は、心優しい維盛にふさわしい物だったのかもしれない。


 しかし、やがて源義仲(みなもとのよしなか)が、木曽から都に攻め(のぼ)って来るという情報が入り、平家一門は清盛の娘、平徳子(たいらのとくこ)が生んだ安徳帝(あんとくてい)を奉じて、都を逃れて行った。


「一門の全ての方が、妻子を伴って都から落ちて行かれた時、どれほど私がお願いしても、維盛様は私と子ども達を連れて行ってはくださいませんでした。藤原成親の娘である私が、一門との逃亡生活の中でつらい思いをしないようにと。ご自分に万が一のことがあれば、子ども達を守ってくれる相手と再婚するようにとまで言い置いて……。あの時、既に維盛様は一門のどなたも、無事に都へは戻って来れないことを予感しておられたのかもしれません」


 源義経(みなもとのよしつね)率いる源氏の軍勢により、西へ西へと追い詰められて行った平家一門は、寿永(じゅえい)四年三月二十四日に壇ノ浦にて完全に敗北、(おも)たる者は戦死、もしくは入水自殺(じゅすいじさつ)した。その死者の中には維盛の異母弟、資盛(すけもり)もいた。また平家一門の棟梁であった宗盛は、捕えられて都まで護送され、息子達と共に首をはねられた。


 だが、壇ノ浦に向かった一門の中に、維盛の姿はなかった。壇ノ浦合戦の一年前に、維盛は自ら命を断っていたのである。


 都から落ちて行った維盛は結局、一門と共にも行動しきれなかった。都に残した妻子を恋い続け、ある夜、わずかな供をつれて、一門から戦線離脱したのだった。


 だが、源氏に占領された都にも戻れず、父の重盛が最後に詣でた熊野権現(くまのごんげん)を、父の跡を慕うように詣でた後、那智の沖で自ら入水自殺を遂げたのだった。重景と石童丸も維盛を追って自殺したと、若葉に告げたのは、維盛の供の中で、ただ一人生き残り、都へと戻った舎人(とねり)武里(たけさと)だった。


 維盛の一人息子、六代御前(ろくだいごぜん)は母と妹と共に都の内に隠れ住んでいたが、ついに源氏による平家の残党狩りに捕まった。処刑寸前の六代を救ったのは、なんと文覚だった。


 自らの目論見通(もくろみどお)り、伊豆へと下り、源頼朝(みなもとのよりとも)の顔を見た文覚は、彼こそが天下を取るべき人物と説き、挙兵を促した。


 頼朝の協力を得た文覚が、高雄(たかお)神護寺(じんごじ)再興(さいこう)したことを聞きつけた兵衛佐は、文覚に会いに高雄へ赴いたのである。若葉姫の息子の命を救って欲しいと頼まれた文覚は、頼朝に六代を弟子にしたいと申し出た。そして、頼朝の許可を受け、六代は死刑を免れたのだった。


「息子は妙覚(みょうがく)という法名(ほうみょう)をいただいて、高雄で今も修行に励んでおります。娘は先頃、嫁ぎました」


 御簾の奥で穏やかに微笑む女性は、維盛の死後、その遺言通り再婚し、一家の女主人となっていた。先ほどから僧の世話をしている中年の女房が兵衛佐であることも、僧は聞かされていた。


平維盛(たいらのこれもり)様に嫁がれたことを、今ではどのようにお考えですか?」


 僧の静かな問いかけに、一瞬、沈黙した北の方は、独り言のように呟いた。


「今日は風の音が激しいこと。松のざわめく音がまるで波のよう。外はたいそうお寒いのでしょうね」


「……は、はあ」


 自分の質問と今の言葉の関係が分からず、僧はぎこちなく相づちを打った。


「こんな風の激しい日には、波の彼方から、あの方の私を呼ぶ声が、今でも聞こえるような気がしますの」


 御簾の奥の声はどこまでも優しくて悲しげだった。


「今の夫を愛しております。……でも、維盛様のことを、片時も忘れたことはございません。維盛様と共に過ごした日々は、夢のように幸せな時間でした」


 そのまま僧は屋敷を辞去した。


 まもなく源頼朝が死去し、時の政権に不満を抱いていた文覚は謀反を計画した。だが、計画は事前に漏れて失敗し、文覚は流罪となった。


 謀反に加担こそしていなかったが、その弟子の妙覚は、平家一門の最後の生き残りの男子として、捕えられ、処刑された。そのことは風の噂として、僧のもとに届いたが、僧は妙覚の死を物語の最後に書き留めたまでで、母である北の方のもとに参ることは二度となかった。


 維盛の北の方だった女性は、それから老いるまで、穏やかな生活を続け、やがて亡くなった。


 僧の俗名(ぞくみょう)信濃前司行長しなののぜんじゆきなが。後に平家物語の作者として、歴史に名を残す人物である。


 平維盛と北の方の馴れ初め物語は、平家物語に今も語り伝えられている。

大学で平家物語を専攻していた時に、自分の論文に取り上げた人物をもとに書いた物語です。

この物語はフィクションであり、実在の人物、作品には、ほぼ関係のない事をお断りしておきます。


内容としては、延慶本えんぎょうぼん『平家物語』の「維盛北方事これもりのきたのかたのこと」にある、平維盛とその北の方の馴れ初め記事を、私流に拡大解釈して、物語化しました。元の話はもともと短い記事なのですが、原型くらいしか残っていません…。

維盛の北の方の名前は「建春門院新大納言けんしゅんもんいんしんだいなごん」としか伝わっておりませんので、歌舞伎の『義経千本桜よしつねせんぼんざくら』の「鮨屋すしや」において、維盛の北の方の名を「若葉内侍わかばのないし」としているところから取りました。


また、分かっていて嘘を書いているところもあります。

成経と若葉は異母兄妹ですし、若葉は成親の一人娘ではなく次女。成親と若葉の母は、若葉の結婚話が出た頃は、既に離婚している、などです。

最大の嘘は、『平家物語』の作者が信濃前司行長だという説は、現在の研究では既に、否定されているという事です。

維盛が一門から戦線離脱後、那智の沖で入水自殺したというのも、当時の人々は信じていたようですが、実際は戦線離脱後の行方は分かっていません。


長いお話を読んで下さって、ありがとうございました。

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