第二章 2, 三人の旅行
『鶯の声は死神と共に』をお読みいただき、ありがとうございます。
本作は、五年前に起きた少年の失踪事件をめぐるミステリーです。
完結まで、毎日3話ずつ投稿する予定です。
最後までお付き合いいただければ幸いです。
第二章 三人の旅行
暮らし始めて一か月ほどたつと、沙織は直人の勤務時間に不満を見せるようになった。
初めのうちは仕方がないと分かっていた。工場の勤務時間が一定でないことも、急に出勤が早まったり、帰りが遅くなったりすることも、結婚する前から聞いていた。
それでも、実際に同じ家で暮らしてみると、理解していることと我慢できることは別だった。
「今日も遅くなるの?」
朝食を急いで口へ運ぶ直人に、沙織が尋ねた。
「たぶん昨日と同じくらい」
「昨日って、十時を過ぎてたじゃない」
「仕事だから仕方ないだろ」
「仕方ないって言えば、何でも終わるよね」
沙織はそれ以上何も言わず、直人の前から空いた皿を下げた。
怒らせるつもりはなかった。直人にも、それは分かっていた。ただ、何と答えれば沙織が納得するのかが分からなかった。
早く帰ると約束しても、守れるとは限らない。休みの日を伝えても、急な勤務が入ることがある。期待させてから失望させるくらいなら、初めから何も約束しない方がいい。
そう考えるようになってから、直人の返事は次第に短くなっていた。
二人で食事のできる夜も、なくなったわけではない。
しかし、沙織は直人の帰宅を待ち続けることをやめた。直人が帰る頃には、食卓に一人分の料理が置かれている。冷めていれば自分で温め、音を立てないように食べる。
廊下の向こうには家族がいる。それなのに、自分だけが一人で食事をしている。
この家で暮らし始めた頃には新鮮だった人の気配を、直人は少しずつ持て余すようになっていた。
ある夜、直人が珍しく早く帰ると、沙織は居間で旅行の番組を見ていた。
画面には、青い海と白い砂浜が映っている。
「こういうところ、行ってみたいな」
沙織が何気なく言った。
直人は上着を脱ぎながら画面を見た。
再婚ということもあり、二人は結婚式らしい結婚式を挙げていない。身内への報告と簡単な食事だけで済ませ、新婚旅行にも行っていなかった。
直人は沙織の隣に腰を下ろした。
「旅行、行くか」
「旅行?」
「新婚旅行みたいなものも、まだだっただろ」
沙織が直人を見る。その顔に、驚きのあとから少しずつ笑みが広がっていく。
「行けるの?」
「休みを取れるか聞いてみる」
「本当に?」
「国内でもいいし」
そこまで言うと、沙織はもう一度画面へ目を向けた。
「せっかくなら、海外がいい」
直人も青い海を見た。
「海外か」
「遠いところじゃなくてもいいの。何日かだけでも」
工場の勤務を考えれば、長い休暇は難しい。二人で旅行案内を調べ、数日で行ける場所を探した。
グアムなら、直人にも現実的に思えた。
悠真が小学校を卒業してから、中学校へ入学するまでの春休み。その時期なら沙織も予定を合わせやすく、直人も早めに申請すれば休暇を取れる可能性がある。
「三泊くらいなら、何とかなると思う」
「じゃあ、海の見えるところがいい」
「泳ぐのか?」
「行ってから考える」
二人で笑ったのは、久しぶりだった。
旅行の日程を話すうちに、ここしばらく二人の間にあったものが、少しだけ薄くなったように直人は感じた。
悠真が旅行の話を知ったのは、その数日後だった。
沙織がテーブルに広げていた旅行案内を、悠真が横からのぞき込んだ。
「どこか行くの?」
「春休みにね。まだ決まったわけじゃないけど」
「海外?」
表紙に印刷された海の写真を見て、悠真の顔が明るくなった。
「僕も行きたい」
直人は答えなかった。
沙織と二人で行くつもりだった。結婚式を挙げなかった二人にとって、それが初めて夫婦だけで過ごす、まとまった時間になるはずだった。
「これは新婚旅行だから」
沙織が言い聞かせるように答えると、そばにいた和子が口を挟んだ。
「悠真も連れていきなさい」
「でも、お母さん」
「もう三人で家族になったのでしょう。悠真だけ置いて、二人で旅行へ行くつもりなの?」
「そういう意味じゃなくて――」
「中学へ入ったら、部活だ何だで簡単には休めなくなるでしょう。行くなら、小学校を卒業してから入学式までの今しかないじゃない」
沙織は言葉を止めた。
直人も旅行案内へ目を落としたまま、何も言えなかった。
悠真を連れていきたくないわけではない。
三人で行けば、楽しい旅行になるかもしれない。悠真にとっても、初めての海外旅行になる。
だが、そういうことではなかった。
これは自分と沙織のために考えた旅行だった。二人の間にできかけていた溝を埋めるために、自分から言い出したものだった。
「せっかく悠真も行きたいと言っているのよ。三人で行きなさい」
和子は、もう話が決まったものとして言った。
直人がここで二人だけで行きたいと言えば、悠真を家族として受け入れていないように聞こえるだろう。
反論する言葉が見つからなかった。
「……分かりました」
ようやく、それだけを答えた。
悠真はうれしそうに旅行案内を手に取った。
「海で泳げる?」
「三月でも泳げるんじゃないかな」
沙織は悠真に答えながら、一度だけ直人を見た。
直人は顔を上げなかった。
その夜、二人きりになってからも、沙織が旅行に触れることはなく、直人もまた何も言い出せないまま時間だけが過ぎていった。
こうして、二人の新婚旅行として始まった計画は、いつの間にか三人で出かける最初の家族旅行へと姿を変えた。
数日後、直人は職場へ春休みの休暇を申請した。航空券と宿泊先は三人分。沙織が海の見える部屋を選ぶ隣で、悠真は初めて持つパスポートの話を何度も繰り返した。
旅行の準備は順調に進んでいた。
三人で行けば、きっと楽しい。直人もそう考えていたはずなのに、予約確認の画面に並ぶ三人の名前を見ると、胸の奥に説明のできないものが残った。
悠真と一緒に行くのが嫌なわけではない。和子に口を出されたことだけが不満なのでもない。
では、何がこれほど引っかかるのだろう。
窓の外では、冬の間は聞かなかった鳥が鳴いていた。
直人はしばらくその声を聞いていたが、それが何という鳥だったのか思い出せない。以前なら沙織に尋ねていたかもしれない。しかし今は、声をかけることさえ面倒に感じられた。
自分で選んだはずの生活が、気づかないうちに少しずつ別の形へ変わっていく。それを止める方法も、誰かに説明する言葉も、直人には見つけられなかった。
静寂のなか、鳥の声だけがやけに耳についた。
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・地名・心理描写は架空のものであり、実在の人物や事件について、その動機や内面を説明するものではありません。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
物語は、五年前の失踪事件を追いながら、少しずつ真相へ近づいていきます。
続きは明日、3話投稿予定です。
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