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鶯の声は死神と共に  作者: lazilywalker
9/12

第二章 2, 三人の旅行

『鶯の声は死神と共に』をお読みいただき、ありがとうございます。


本作は、五年前に起きた少年の失踪事件をめぐるミステリーです。


完結まで、毎日3話ずつ投稿する予定です。

最後までお付き合いいただければ幸いです。

第二章 三人の旅行


暮らし始めて一か月ほどたつと、沙織は直人の勤務時間に不満を見せるようになった。


初めのうちは仕方がないと分かっていた。工場の勤務時間が一定でないことも、急に出勤が早まったり、帰りが遅くなったりすることも、結婚する前から聞いていた。


それでも、実際に同じ家で暮らしてみると、理解していることと我慢できることは別だった。


「今日も遅くなるの?」


朝食を急いで口へ運ぶ直人に、沙織が尋ねた。


「たぶん昨日と同じくらい」


「昨日って、十時を過ぎてたじゃない」


「仕事だから仕方ないだろ」


「仕方ないって言えば、何でも終わるよね」


沙織はそれ以上何も言わず、直人の前から空いた皿を下げた。


怒らせるつもりはなかった。直人にも、それは分かっていた。ただ、何と答えれば沙織が納得するのかが分からなかった。


早く帰ると約束しても、守れるとは限らない。休みの日を伝えても、急な勤務が入ることがある。期待させてから失望させるくらいなら、初めから何も約束しない方がいい。


そう考えるようになってから、直人の返事は次第に短くなっていた。


二人で食事のできる夜も、なくなったわけではない。


しかし、沙織は直人の帰宅を待ち続けることをやめた。直人が帰る頃には、食卓に一人分の料理が置かれている。冷めていれば自分で温め、音を立てないように食べる。


廊下の向こうには家族がいる。それなのに、自分だけが一人で食事をしている。


この家で暮らし始めた頃には新鮮だった人の気配を、直人は少しずつ持て余すようになっていた。


ある夜、直人が珍しく早く帰ると、沙織は居間で旅行の番組を見ていた。


画面には、青い海と白い砂浜が映っている。


「こういうところ、行ってみたいな」


沙織が何気なく言った。


直人は上着を脱ぎながら画面を見た。


再婚ということもあり、二人は結婚式らしい結婚式を挙げていない。身内への報告と簡単な食事だけで済ませ、新婚旅行にも行っていなかった。


直人は沙織の隣に腰を下ろした。


「旅行、行くか」


「旅行?」


「新婚旅行みたいなものも、まだだっただろ」


沙織が直人を見る。その顔に、驚きのあとから少しずつ笑みが広がっていく。


「行けるの?」


「休みを取れるか聞いてみる」


「本当に?」


「国内でもいいし」


そこまで言うと、沙織はもう一度画面へ目を向けた。


「せっかくなら、海外がいい」


直人も青い海を見た。


「海外か」


「遠いところじゃなくてもいいの。何日かだけでも」


工場の勤務を考えれば、長い休暇は難しい。二人で旅行案内を調べ、数日で行ける場所を探した。


グアムなら、直人にも現実的に思えた。


悠真が小学校を卒業してから、中学校へ入学するまでの春休み。その時期なら沙織も予定を合わせやすく、直人も早めに申請すれば休暇を取れる可能性がある。


「三泊くらいなら、何とかなると思う」


「じゃあ、海の見えるところがいい」


「泳ぐのか?」


「行ってから考える」


二人で笑ったのは、久しぶりだった。


旅行の日程を話すうちに、ここしばらく二人の間にあったものが、少しだけ薄くなったように直人は感じた。


悠真が旅行の話を知ったのは、その数日後だった。


沙織がテーブルに広げていた旅行案内を、悠真が横からのぞき込んだ。


「どこか行くの?」


「春休みにね。まだ決まったわけじゃないけど」


「海外?」


表紙に印刷された海の写真を見て、悠真の顔が明るくなった。


「僕も行きたい」


直人は答えなかった。


沙織と二人で行くつもりだった。結婚式を挙げなかった二人にとって、それが初めて夫婦だけで過ごす、まとまった時間になるはずだった。


「これは新婚旅行だから」


沙織が言い聞かせるように答えると、そばにいた和子が口を挟んだ。


「悠真も連れていきなさい」


「でも、お母さん」


「もう三人で家族になったのでしょう。悠真だけ置いて、二人で旅行へ行くつもりなの?」


「そういう意味じゃなくて――」


「中学へ入ったら、部活だ何だで簡単には休めなくなるでしょう。行くなら、小学校を卒業してから入学式までの今しかないじゃない」


沙織は言葉を止めた。


直人も旅行案内へ目を落としたまま、何も言えなかった。


悠真を連れていきたくないわけではない。


三人で行けば、楽しい旅行になるかもしれない。悠真にとっても、初めての海外旅行になる。


だが、そういうことではなかった。


これは自分と沙織のために考えた旅行だった。二人の間にできかけていた溝を埋めるために、自分から言い出したものだった。


「せっかく悠真も行きたいと言っているのよ。三人で行きなさい」


和子は、もう話が決まったものとして言った。


直人がここで二人だけで行きたいと言えば、悠真を家族として受け入れていないように聞こえるだろう。


反論する言葉が見つからなかった。


「……分かりました」


ようやく、それだけを答えた。


悠真はうれしそうに旅行案内を手に取った。


「海で泳げる?」


「三月でも泳げるんじゃないかな」


沙織は悠真に答えながら、一度だけ直人を見た。


直人は顔を上げなかった。


その夜、二人きりになってからも、沙織が旅行に触れることはなく、直人もまた何も言い出せないまま時間だけが過ぎていった。


こうして、二人の新婚旅行として始まった計画は、いつの間にか三人で出かける最初の家族旅行へと姿を変えた。


数日後、直人は職場へ春休みの休暇を申請した。航空券と宿泊先は三人分。沙織が海の見える部屋を選ぶ隣で、悠真は初めて持つパスポートの話を何度も繰り返した。


旅行の準備は順調に進んでいた。


三人で行けば、きっと楽しい。直人もそう考えていたはずなのに、予約確認の画面に並ぶ三人の名前を見ると、胸の奥に説明のできないものが残った。


悠真と一緒に行くのが嫌なわけではない。和子に口を出されたことだけが不満なのでもない。


では、何がこれほど引っかかるのだろう。


窓の外では、冬の間は聞かなかった鳥が鳴いていた。


直人はしばらくその声を聞いていたが、それが何という鳥だったのか思い出せない。以前なら沙織に尋ねていたかもしれない。しかし今は、声をかけることさえ面倒に感じられた。


自分で選んだはずの生活が、気づかないうちに少しずつ別の形へ変わっていく。それを止める方法も、誰かに説明する言葉も、直人には見つけられなかった。


静寂のなか、鳥の声だけがやけに耳についた。

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・地名・心理描写は架空のものであり、実在の人物や事件について、その動機や内面を説明するものではありません。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


物語は、五年前の失踪事件を追いながら、少しずつ真相へ近づいていきます。


続きは明日、3話投稿予定です。

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