第二章 3, 居場所
『鶯の声は死神と共に』をお読みいただき、ありがとうございます。
本作は、五年前に起きた少年の失踪事件をめぐるミステリーです。
最後までお付き合いいただければ幸いです
居場所
主任の話を最初に聞いたのは、年が明けて間もない頃だった。
正式な辞令が出たわけではない。それでも職場では、次の主任は直人だろうと言われていた。
直人自身も、そのつもりでいた。
急に欠員が出れば休日でも工場へ向かい、ほかの者が嫌がる夜勤も引き受けた。主任が不在の日には、作業の割り振りや引き継ぎまで任されるようになっている。
班員から機械の不調について相談されることも増えた。
「主任になったら、勤務時間も少しは決まるんじゃないか」
同僚からそう言われ、直人も期待するようになった。
決まった時間に帰れるようになれば、沙織と食事をする日を増やせる。悠真とも、今よりは顔を合わせられるだろう。
家族三人で行くグアム旅行も、主任になってからの新しい生活も、直人の中では一続きのものになっていた。
ところが、月末の勤務表には別の男の名前が主任として記載されていた。
直人より勤務年数の短い男だった。
何かの間違いかと思い、直人は勤務表の前でしばらく立ち止まった。しかし周囲の者たちは、すでにそのことを知っているようだった。
誰も直人と目を合わせようとしない。
昼休みの前、直人は上司から事務所へ呼ばれた。
「主任の件なんだけどな」
上司は直人に座るよう勧めることもなく、机の上の書類を見ながら話し始めた。
「今回は見送ることになった」
「そうですか」
「勤務態度に問題があるわけじゃない。現場全体のバランスを考えた結果だ」
「分かりました」
「また機会はある。腐らずにやってくれ」
それだけだった。
これまで休日出勤を引き受けてきたことも、主任の代わりに班を動かしてきたことも、話には出なかった。
直人は頭を下げ、事務所を出た。
持ち場へ戻る途中、新しく主任になる男とすれ違った。
「すみません」
男は何も悪いことをしていないのに、直人へ頭を下げた。
「何が?」
「いや……これからも、いろいろ教えてください」
「分かった」
直人は笑って答えた。
その日の仕事も、いつもどおりにこなした。
機械を動かし、製品を確認し、後の勤務者へ引き継ぐ。手順を間違えることも、声を荒らげることもなかった。
ただ、機械の前に立っている間、上司の言葉が頭の中で繰り返されていた。
現場全体のバランス。
また機会はある。
腐らずにやってくれ。
言葉の意味を考えようとしても、途中から機械の音と混ざり合い、何を考えていたのか分からなくなった。
気がつくと、動いている機械の前で手を止めていた。
「どうした?」
同僚に肩をたたかれ、直人はようやく顔を上げた。
「いや、何でもない」
ほんの数秒だったのか。それとも、もっと長い間動かずにいたのか。
時計を確認しても分からなかった。
帰宅したのは、夜の十時を過ぎてからだった。
食卓には一人分の夕食が置かれていた。皿にはラップが掛かり、その上に沙織の字で「温めて」と書いた紙が載っている。
直人が電子レンジの扉を開けると、背後で足音がした。
「今帰ったの?」
沙織が台所の入口に立っていた。
「起きてたのか」
「旅行のことで話したかったから」
「明日でもいいだろ」
「明日も遅いんでしょう」
直人は答えず、電子レンジへ皿を入れた。
「休みは、本当に取れてるの?」
「申請は通ってる」
「また急に仕事になったりしない?」
「今回は大丈夫だと思う」
「思う、なんだ」
沙織の声が少し硬くなった。
「旅行が決まったときは、もう少し一緒に話せると思ってた。でも、結局何も変わってないよね」
「旅行には行くだろ」
「旅行だけ行けば、それでいいわけじゃない」
電子レンジが動き始めた。
低い音の向こうで、沙織が何かを言っている。直人には、その言葉が途中から聞き取れなくなった。
話を聞かなければならない。
そう思って沙織の顔を見るが、唇の動きと言葉がうまく重ならない。
電子レンジの終了音が鳴ると、直人の耳に周囲の音が一度に戻ってきた。
「聞いてる?」
「聞いてるよ」
「じゃあ、私が今何て言ったか分かる?」
直人は答えられなかった。
沙織は小さく息を吐いた。
「もういい」
そのまま台所を出ていく。
直人は温まった皿を取り出し、一人で食卓に座った。
何を食べているのか、ほとんど味がしなかった。
翌朝、直人が出勤しようとすると、玄関で和子に呼び止められた。
「少しいいですか」
「急いでいるんですが」
「悠真のことです」
直人の手が止まった。
「旅行のことなら、予約は済んでいます」
「旅行だけの話ではありません」
和子は直人の正面に立った。
「あの子はもうすぐ中学生になります。難しい時期に入るんですから、あなたがしっかり見てあげないと」
「見ています」
「そうでしょうか」
和子は間を置かずに言った。
「一緒に食事をすることも、ほとんどないそうじゃないですか」
「仕事の時間が違うんです」
「父親になったのなら、それで済ませてはいけないでしょう」
父親になったのなら。
その言葉が、直人の胸に残った。
「悠真には父親が必要なんです。沙織だけに任せるようなことはしないでくださいね」
「分かっています」
「本当に分かっていますか」
直人は腕時計を見た。
このままでは始業時間に遅れる。
「すみません。もう行かないと」
「話はまだ終わっていません」
「帰ってから聞きます」
「あなたは、いつ帰ってくるか分からないでしょう」
直人は何も返さず、玄関を出た。
車に乗ってからも、和子の言葉が耳に残っていた。
一緒に食事をしていない。
沙織だけに任せている。
父親になったのなら。
どれも間違ってはいない。
だからこそ、直人には言い返せなかった。
工場へ到着すると、新しく主任になる男が勤務表を手に直人を待っていた。
「ここの組み方なんですけど、少し教えてもらえますか」
直人は勤務表を受け取った。
これまで自分が代わりに作ってきたものだった。
「この時間帯は人数を一人増やした方がいい。ここは二人で足りる」
「なるほど。助かります」
男は直人の説明を聞きながら、勤務表へ書き込んでいく。
直人は、自分が主任になれなかった理由を知らないまま、主任になる男へ仕事を教えていた。
その夜、帰宅した直人が玄関を開けると、居間から笑い声が聞こえてきた。
沙織と悠真、それに和子の声だった。
三人はテーブルを囲み、旅行へ持っていくものを話している。
「水着なんて向こうでも買えるでしょう」
「でも、僕はこっちで買っていきたい」
「直人さんに選んでもらったら?」
「ええ、直人さんに分かるかな」
悠真がそう言うと、三人が笑った。
直人は居間の入口に立った。
誰も直人に気づいていない。
沙織は楽しそうだった。昨夜、直人に向けていた硬い表情はどこにもない。
悠真も笑っている。
和子は、直人には向けたことのない柔らかな声で話していた。
声をかければよかった。
ただいまと言えば、沙織は振り向いただろう。悠真も旅行の話を直人に聞かせたかもしれない。
それなのに、直人は口を開けなかった。
三人の会話には、直人がいなくても途切れるところがない。誰かが話し終える前に次の誰かが言葉を重ね、それを聞いてまた笑い声が起きる。
自分がいなくても、この家の時間は進んでいる。
主任になれなくても工場は動く。
父親になれなくても悠真は育つ。
沙織も、自分がいない方が楽しそうに見える。
では、自分は何のためにここにいるのだろう。
誰かが直人の名前を呼んだ気がした。
顔を上げても、三人はまだ話を続けている。
直人は音を立てないように居間から離れ、自分の部屋へ向かった。
扉を閉めると、笑い声は小さくなった。
椅子に腰を下ろし、両手を膝の上に置く。
手には、工場の油の匂いが染みついていた。
どれほど洗っても落ちないその匂いが、今まで働いてきた時間そのもののように思えた。
休日も出勤した。
頼まれた仕事は断らなかった。
それでも主任にはなれなかった。
沙織と結婚した。
家族三人で暮らそうとした。
それでも夫として何もできていないと言われる。
悠真の父親になろうとした。
それでも、何をすれば父親になれるのか分からない。
直人は目を閉じた。
工場の機械音が聞こえた。
実際には、部屋の中は静かだった。
耳を澄ますと、機械音は沙織たちの笑い声に変わり、また上司や和子の声へ戻っていく。
また機会はある。
旅行だけ行けばいいわけじゃない。
父親になったのなら。
本当に分かっていますか。
どの言葉も、直人に答えを求めていた。
しかし、どう答えても間違いになるような気がした。
突然、すべての音が消えた。
直人は目を開けた。
部屋の中にいることも、今が夜であることも、すぐには理解できなかった。
自分の手を見ても、それが自分のものではないように見える。
やがて廊下を歩く音がして、直人の意識は急に元へ戻った。
ここは桐谷家の自分の部屋だ。
居間には沙織たちがいる。
明日も仕事へ行かなければならない。
直人は何度も深く息を吸った。
疲れているだけだ。
少し休めば元へ戻る。
そう言い聞かせている間にも、胸の奥では別の考えが膨らみ始めていた。
自分は、この家に必要とされているのだろうか。
必要とされているのは、夫や父親という役割だけではないのか。
その役割を果たせない自分には、ここにいる理由がないのではないか。
窓の外から鳥の声が聞こえた。
近くで鳴いているのか、遠くの山から聞こえてくるのか、直人には分からなかった。
窓を閉めても、声は消えない。
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・地名・心理描写は架空のものであり、実在の人物や事件について、その動機や内面を説明するものではありません。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
物語は、五年前の失踪事件を追いながら、少しずつ真相へ近づいていきます。
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