第二章 4, 卒業式の日
『鶯の声は死神と共に』をお読みいただき、ありがとうございます。
本作は、五年前に起きた少年の失踪事件をめぐるミステリーです。
卒業式の日
悠真の小学校の卒業式は、よく晴れた朝だった。
直人が玄関を出ると、庭先から鳥の声が聞こえた。数日前まで遠く感じていた鳴き声が、その朝は不思議なほど近い。
車の前では、沙織が悠真の襟元を直していた。
「曲がってない?」
「大丈夫。ちゃんとしてるよ」
悠真は慣れない服装が落ち着かないらしく、何度も袖を引いている。
「写真撮っておこうか」
沙織が携帯電話を向けると、悠真は嫌そうな顔をしながらも、直人の隣に立った。
直人は笑おうとした。
撮影された画面の中で、自分がどんな顔をしていたのかは確認しなかった。
「先に行ってるね。受付もあるから」
沙織は和子と一緒に家を出ることになっていた。
直人は悠真を学校まで送ったあと、そのまま工場へ向かう。卒業式には出られないが、沙織も和子も何も言わなかった。
言われなかったことが、かえって直人には責められているように感じられた。
「行くぞ」
悠真を助手席へ乗せ、直人は車を出した。
しばらくの間、二人の間に会話はなかった。
窓の外を、見慣れた町の景色が流れていく。通学路では、正装した子供と親が同じ方向へ歩いていた。
悠真は膝の上で携帯電話を見ている。
「今日は卒業式なんだから、少しくらい早く起きればよかっただろ」
直人が言うと、悠真は画面から目を離さずに答えた。
「間に合ってるじゃん」
「沙織に全部やらせるな。中学生になったら、自分のことは自分でやれ」
「分かってる」
「返事だけじゃなくて、ちゃんと――」
「朝からそういう話やめてよ」
悠真が顔を上げた。
「今日、卒業式なんだけど」
「卒業式だから言ってるんだ」
「お母さんは何も言ってない」
その言葉に、直人の胸が詰まった。
「沙織が何も言わなくても、自分で考えろ」
「直人さんに言われたくない」
車内から音が消えた。
直人は前を向いたまま、ハンドルを握っていた。
「何だ、それ」
「だって、僕のこと何も知らないじゃん」
悠真の声が遠ざかる。
「今までほとんど話もしなかったのに、急に父親みたいなことばっかり言って」
父親になったのなら。
本当に分かっていますか。
和子の言葉が、悠真の声に重なった。
直人は交差点を曲がった。
学校へ向かう道ではなかった。
「どこ行くの」
悠真が尋ねた。
直人は答えない。
「学校、そっちじゃないよ」
「少し黙ってろ」
「遅れるって」
悠真が苛立ったように息を吐く。
「やっぱりお母さんに送ってもらえばよかった」
その瞬間、ハンドルを握る自分の手が、ひどく遠くに見えた。
目の前に道はある。
車を運転していることも分かっている。
それなのに、自分がどこへ向かっているのかだけが分からなかった。
鳥の声が聞こえた。
窓は閉まっているはずなのに、すぐ耳元で鳴いている。
「戻ってよ」
悠真が言った。
「卒業式に遅れる」
直人は車を止めた。
その後のことを、直人は途切れ途切れにしか覚えていなかった。
悠真と言い争ったこと。
車の外へ出たこと。
何かを言われ、振り返ったこと。
気がついたときには、鳥の声が消えていた。
悠真はもう動かなかった。
直人は、目の前にいるのが誰なのか分からなくなった。
春から中学生になる悠真。
三人でグアムへ行くことを楽しみにしていた悠真。
毎日顔を合わせていたわけではなくても、同じ家で暮らしていた自分の子供。
そのすべてが分かっているのに、どれも現実のこととは思えなかった。
遠くで車の走る音がした。
その音に押されるように、直人は動き始めた。
学校へは向かわなかった。
一度、桐谷家の近くまで戻り、人目のない裏手の森へ入った。そこで悠真を残し、直人は再び車に乗った。
エンジンをかける。
時計を見ると、いつもの出勤時間が迫っていた。
直人は工場へ向かった。
駐車場へ車を止め、従業員用の入口から中へ入る。更衣室で作業着に着替え、何事もなかったように持ち場へ立った。
「今日、息子さんの卒業式じゃなかったか」
同僚に尋ねられた。
「そうだよ」
「出なくてよかったのか」
「仕事だから仕方ない」
それ以上、会話は続かなかった。
直人は機械を動かした。
一定の間隔で製品が流れてくる。それを確認し、次へ送る。同じ作業を繰り返しているうちに、朝の出来事が遠ざかっていった。
家を出た。
悠真を車へ乗せた。
学校まで送った。
そして自分は仕事へ来た。
そこまで考えると、何もおかしなことはないような気がした。
昼前、沙織から電話がかかってきた。
直人はすぐには出なかった。
二度目の着信で、ようやく通話ボタンを押す。
「もしもし」
『悠真、学校に来てないって』
沙織の声が震えていた。
「何言ってるんだ」
『先生が、朝から姿を見てないって。直人さん、どこで降ろしたの?』
直人は機械の音を聞いていた。
自分が何と答えればよいのか、しばらく分からなかった。
「校門の近くだよ」
『学校に入るところ、見た?』
「ああ」
言葉が口から出たあと、それが本当にあった出来事のように思えてきた。
校門の前で車を止めた。
悠真が扉を開けた。
卒業式へ向かう子供たちの中へ歩いていった。
その光景を、直人は頭の中で作り上げた。
『警察に連絡する』
「待てよ。友達のところかもしれないだろ」
『卒業式の日に?』
直人は答えられなかった。
午後になると、学校の周辺で捜索が始まった。
同級生の家や通学路、公園、川沿い。悠真が立ち寄りそうな場所を、警察と学校関係者が回った。
直人も早退し、桐谷家へ戻った。
沙織は居間で何度も悠真の携帯電話へかけていた。
呼び出し音は鳴るが、誰も出ない。
「どこで降ろしたの?」
直人の姿を見るなり、沙織が尋ねた。
「学校の近く」
「近くって、どこ?」
「いつも車を止めるところだよ」
「ちゃんと中に入るのを見た?」
「ああ」
「だったら、どうしていないの」
直人は何も答えなかった。
自分がそれを知っていることが、急に不思議に思えた。
警察署で、直人は何度も同じ説明をした。
朝、悠真を学校まで送った。
校門近くで降ろした。
そのまま工場へ向かった。
悠真が学校へ入るところも確認した。
直人の名前で行方不明者届が出された。
書類へ署名するとき、ペン先が紙の上で止まった。
「どうかしましたか」
警察官に尋ねられ、直人は首を横に振った。
「いえ」
自分の名前を書き終える。
それで直人も、子供の帰りを待つ父親になった。
夕方には、役場からも人が出された。
職員や地域の住民が班に分かれ、捜索範囲を広げていく。雅之にも役場から声がかかり、懐中電灯と地図を持って家を出た。
「必ず見つけるから」
雅之は沙織にそう言った。
直人には何も言わなかった。
夜になっても、悠真は見つからない。
捜索から戻った雅之は、泥のついた靴を玄関で脱いだ。
「明日は裏手の森も見るそうだ」
その言葉を聞いた瞬間、直人の耳から周囲の音が消えた。
沙織が何かを尋ねている。
和子も話している。
雅之が地図を広げ、翌日の捜索場所を指している。
口が動いていることは分かるのに、声は聞こえない。
裏手の森。
その言葉だけが、直人の頭に残った。
深夜、家の中が静まってから、直人は目を開けた。
眠っていたのかどうか、自分でも分からない。
隣では沙織が横になっていた。泣き疲れたのか、浅い呼吸を繰り返している。
直人は音を立てないように起き上がった。
上着を着て、車の鍵を手に取る。
廊下を歩き、玄関を開けた。
冷たい夜気の中で、鳥の声は聞こえなかった。
直人は裏手の森へ向かった。
自分が何をしているのか、分かっていた。
同時に、これは自分ではない誰かがしていることのようにも感じていた。
悠真を車へ乗せ、桐谷家を離れた。
町の明かりが背後へ遠ざかっていく。
市街地を抜け、車は山へ向かった。
どこを走ったのか、直人にはほとんど記憶がなかった。
気づいたときには、見知らぬ山道に車を止めていた。
直人は、そこで悠真を残した。
家へ戻る頃には、空がわずかに白み始めていた。
玄関を開けると、沙織が立っていた。
「どこへ行ってたの?」
直人はしばらく答えられなかった。
「眠れなかったから、少し走ってきた」
沙織は直人の顔を見つめた。
何かを尋ねようとしたが、その前に電話が鳴った。
悠真が見つかったという知らせではなかった。
捜索を再開するという連絡だった。
その日も、直人は家族と一緒に悠真を捜した。
名前を呼び、道沿いを歩き、警察から同じ質問を受けた。
悠真を最後に見たのはいつか。
どこで車から降ろしたのか。
服装は。
様子に変わったところはなかったか。
直人は同じ答えを繰り返した。
だが、学校周辺の聞き込みや通学路の記録を調べても、悠真が校門へ向かう姿は確認できなかった。
直人の説明には、少しずつ食い違いが見つかり始めた。
悠真の遺体が発見されたのは、それから数日後だった。
市街地から離れた山中だった。
知らせを受けた沙織は、その場に崩れ落ちた。
和子が沙織の肩を抱き、雅之は何も言わずに立っていた。
直人も、その横にいた。
誰かが泣いている。
誰かが自分の名前を呼んでいる。
警察官が近づいてくる。
すべてが、厚い壁の向こうで起きているように見えた。
「桐谷直人さん」
警察官が正面に立った。
「もう一度、詳しくお話を伺いたいことがあります。署までご同行いただけますか」
直人はうなずいた。
沙織が顔を上げる。
その目に何が浮かんでいたのか、直人には分からなかった。
警察署での事情聴取は長く続いた。
直人が悠真を降ろしたと話した時刻。
工場へ到着した時刻。
その間に車が走った経路。
事件当日の夜、直人が一人で家を出たこと。
一つずつ並べられた事実が、直人の作った記憶を崩していく。
学校まで送った。
校門で降ろした。
悠真が中へ入るのを見た。
何度そう繰り返しても、もう誰も信じなかった。
やがて警察官が、直人の前へ一枚の書類を置いた。
直人はそれを見つめた。
窓の外で、鳥が鳴いていた。
今度は、その声がはっきりと聞こえた。
直人は顔を上げた。
自分が何をしたのか、すべて分かっていた。
それでも、なぜそこまで行ってしまったのかだけは、自分にも分からなかった。
その後、直人は悠真を殺害し、遺体を遺棄した容疑で逮捕された。
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・地名・心理描写は架空のものであり、実在の人物や事件について、その動機や内面を説明するものではありません。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
物語は、五年前の失踪事件を追いながら、少しずつ真相へ近づいていきます。
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