第二章 1, 始まった生活
『鶯の声は死神と共に』をお読みいただき、ありがとうございます。
本作は、五年前に起きた少年の失踪事件をめぐるミステリーです。
完結まで、毎日3話ずつ投稿する予定です。
最後までお付き合いいただければ幸いです。
第一章 始まった生活
直人が沙織と暮らし始めた頃、桐谷家の屋敷は、彼が想像していたよりも賑やかな場所だった。
賑やかといっても、いつも人の声がしているわけではない。岐阜の山々を遠くに望む古い家には、音よりも人の気配があった。
朝になれば、どこかの部屋で戸が開く。廊下を歩く足音がして、台所から食器の触れ合う音が聞こえる。仕事から帰れば、玄関に自分以外の靴が並んでいる。
直人にとって、そうしたものはどれも新鮮だった。
結婚を喜んでいたのは沙織も同じだった。
二人で食卓を囲み、その日にあったことを話す。休みの日には一緒に買い物へ行き、夕方には家へ戻る。沙織は、そんな暮らしが当たり前に続くものと思っていた。
ただ、現実には直人の勤務時間がそれを許さなかった。
工場の勤務は一定ではなかった。まだ空の暗いうちに家を出る日もあれば、家族が寝静まってから帰る夜もある。休日も沙織と重なるとは限らなかった。
それでも、二人で食事のできる日はあった。
「今日は早かったんだ」
食卓に料理を並べながら、沙織がうれしそうに言った。
「明日はまた早いけどな」
「じゃあ、今日はちゃんと食べて」
沙織はそう言いながら、直人の前に椀を置いた。
そんな日は、直人も悪くないと思った。
毎日ではないからこそ、二人で食べる夕食には特別なものがあった。悠真と食事の時間が重なることはほとんどなかったが、同じ家のどこかに家族がいる。それだけで、以前の暮らしとは違っていた。
雅之は、二人の新しい生活が始まるとき、家のことも費用のことも心配する必要はないと言った。
「こちらのことは私が何とかする。今は先のことまで考えなくていい。まずは家族三人で暮らしてみればいい」
直人には、その言葉がありがたかった。
桐谷家で暮らすことに、最初から迷いがなかったわけではない。大きな家にも、昔からこの土地に根を張ってきた家族にも、どこか自分とは違うものを感じていた。
だが雅之は、直人に何かを求めることも、桐谷家の人間らしく振る舞うよう迫ることもなかった。
敷地内の離れでは、直人の姉夫婦が暮らしていた。
同じ敷地に住んではいたが、生活は母屋と分かれている。顔を合わせれば言葉を交わすものの、互いの暮らしに深く立ち入ることはなかった。
和子とも、廊下や玄関先でたまに会った。
「おはようございます」
直人が挨拶をすると、和子も短く言葉を返した。それ以上の会話になることはほとんどなかった。
嫌われているとは思わなかった。ただ、和子は直人が何時に出勤し、何時に帰るのかに興味がないようだった。直人も、その距離を気楽に感じていた。
職場では、桐谷という姓を聞いた同僚から尋ねられることがあった。
「桐谷家って、この辺じゃ昔からの名門なんだろ。そういう家だと、いろいろ大変なんじゃないか」
「別に、普通の家だよ」
直人がそう答えると、同僚は「そんなものか」と笑った。
この辺りの人間からは、桐谷家はそう見えるのか。
直人が思ったのは、それだけだった。
仕事から帰り、玄関を開ける。誰かの靴があり、家の奥から小さな物音が聞こえる。
毎日同じ相手ではなくても、家に帰れば家族の誰かと顔を合わせる。直人は、そんな生活を新鮮に感じていた。
少なくとも、その頃の彼には、それが家族と暮らすということなのだと思えた。
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・地名・心理描写は架空のものであり、実在の人物や事件について、その動機や内面を説明するものではありません。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
物語は、五年前の失踪事件を追いながら、少しずつ真相へ近づいていきます。
続きは明日、3話投稿予定です。
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