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猫と、彼女と、時々俺と。  作者: 桔梗


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8/9

妻と青年(クロside)

久世朔という青年が、この家に初めて来た時、僕はすぐにわかった。


ああ、彼は、楓に惹かれているんだな、と。


楓は、可愛くて綺麗だから、仕方がない。


僕が死んで三年が経った。

楓の人生は楓のものだ。

彼女が誰と出会い、誰に笑い、誰と新しい時間を過ごそうと、それを僕が責める権利なんてない。


そんなふうに、物分かりのいい夫でいられたらよかったのだけれど。


でも、今の僕は、ただの猫だ。

黒い毛並みと、細い手足と、鋭い爪と、よく動く尻尾を持った、ただの黒猫。


だからいいだろう?

ただの猫なんだから、嫌なものは嫌だと言ったってーーいいだろう?


***


彼はまだ若すぎる。

二十二歳だと言っていた。


「いい旦那さんですね」


彼がそう言うと、「うん。いい旦那さん」と、楓は微笑んだ。


胸が痛んだ。

猫の体でも、胸は痛むらしい。


僕はーー果たして、いい旦那だっただろうか。

最後まで強がって、楓と十分話せなかった。

そうやって、結局、あっけなく死んで彼女をひとりにした。


いい旦那だったなんて、僕自身は一度も思えたことがない。

それでも楓がそう言うなら、僕はそういう男だったことにしておきたかった。


彼は両親の話をした時、その顔に一瞬だけ影が落ちた。

僕は思った。

ああ、この子も、きっと失くしているのだ、と。


大切なものを。

帰る場所を。

いつも、当たり前にそこにあると思っていたものを。


だから、無駄だと思いつつも、つい話しかけてしまったんだ。


『……君も、苦労してきたんだな』


この一年、僕は何度も楓に話しかけた。

 

ーーおはよう。 

ーー無理しないで。 

ーーちゃんと食べて。 

ーーもう泣かないで。 

ーー俺は、ここにいるよ。


けれど、一度も届かなかった。


だから、どうせ届かない。

そう思っていた。

けれど、彼は顔を上げた。


「……え?」


まさか、聞こえたのか?

今、僕の声がーー楓には届かなかった僕の声が。


それがよりによって、楓に好意を寄せている若い男だというのは、神様がいるなら相当性格が悪い。

けれど、それでもーーようやく声が届いた。


「どうしたの?」


楓が不思議そうに尋ねる。


「いえ……今、何か言いました?」


「私? 何も言ってないけど……」


「……ですよね」


僕は彼を見つめる。

そして、もう一度、試さずにはいられなかった。


『なんだ、君。もしかして、僕の声が聞こえるのか?』


彼は、椅子から立ち上がった。

その反応だけで十分だった。


ありえないことだった。

けれど、この体で目を覚ました日から、僕の現実はずっとありえないことばかりだった。


死んだはずの僕が、猫の体で楓の家の前にいた。

楓は僕を拾い、クロと名付け、彼女のそばにいることを許された。

ならば、もう一つくらい、ありえないことが起きてもおかしくはないのかもしれないーーそう思ったんだ。


「一体、何なんだよ、お前」


何なんだ。

それは、僕が一番知りたい。


僕はもう人間ではない。

けれど、ただの猫でもない。

死者でもあり、生者でもある。


どれも正しくて、どれも間違っていた。

だから僕は、一番簡単な答えを選んだ。


『僕の名前は、日向柊。楓の夫だ』


彼は理解できないという顔をした。


当然だ。

僕だって、彼の立場なら信じない。


猫が喋り、その猫が好きな人の亡くなった夫だと言い出す。

まともな人間なら、まず自分の精神状態を疑う。


転生なのかと尋ねてくる彼に、僕はわかる範囲で答えた。


僕自身、本当のところは何もわからない。

僕は間違いなく、三年前のあの日、病室で最後を迎えたはずだった。

 

最後に覚えているのは、楓の手の温度だった。

冷えていく自分の指を、楓が必死に握っていた。 


子供のように泣きじゃくり、必死に僕の手を温めようとするその顔を見ながら、僕は思った。

 

ーーこの子を置いていくわけにはいかない。

ーー神様。どうか、どうか、なんだってするから。あと少しだけでいいから、この子のそばに居させて。

 

そして目覚めたら、僕は黒猫になっていた。


***


「……柊さんは……それでいいんですか?」


そう言って、僕を見下ろす青年に無性に腹がたった。

もし僕が人間の姿だったら、胸ぐらを掴んでいたかもしれない。


君に何がわかるんだーーそう思った。

 

愛する人のそばにいながら、触れられないこと。 

どんなに呼びかけても、声が届かないこと。 

君に、僕の何がわかるっていうんだよ。


いいわけがない。

いいわけがないだろう。


僕は、もう一度、楓の名前を呼びたい。

彼女をそっと抱きしめて、頭を撫でてあげたい。

朝目覚める彼女の隣で、一緒に朝を迎えたい。


『それでも……いないよりはいいだろう?』


それは、僕の最大限の強がりであり、僕がこの二年、自分に言い聞かせてきた呪文だった。


ただの猫でもいい。

楓が僕に気づかなくたっていい。


楓のそばにいられるならーーそばにいられるのなら、それだけで。


だから、僕は彼に言ったんだ。


『楓には――近づかないでくれ』


これはお願いではなく、警告だった。

楓が若い男に誑かされて、傷付かないように。

楓を守るために言ったつもりだった。


「俺を楓さんに近づけたくないのは、柊さんのため……でも、ありますよね」


そうだ。

俺は、怖い。

楓が僕のいない未来に進むことが。

怖いーーたまらなく怖い。


ただ、久世朔という青年が現れたことで、止まっていた時間が少しずつ動き出そうとしていることだけはわかった。


夫として彼女の隣にいられない僕と。

僕の声を聞いてしまった若い男と。

何も知らずに、僕たち二人を見て笑う楓。


それは、あまりにも歪で。

あまりにも滑稽で。


そして、この日からーー僕と楓と久世朔の、奇妙な時間が始まったのだった。

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