恋心と黒猫(朔side)
「久世くん?」
楓さんの声がして、俺は反射的に背筋を伸ばした。
(デジャブだな……)
「はい!」
声が裏返った。
廊下の向こうから、楓さんが顔を出す。
眼鏡をかけていて、髪は少し乱れている。
手にはマグカップ。
さっき雑炊を食べたせいか、顔色は少しだけましになっていた。
「久世くん、そろそろ帰る時間かなって思って」
「……あぁ……そうですね。一応帰る時間ですけど、今日、ほかにやっておくことありますか?」
「今日はもう大丈夫かな。ありがとう」
***
その日の帰り道、俺は駅までの道を、ほとんど何も考えられないまま歩いていた。
いや、正確には考えることが多すぎて、何も考えられなかった。
ーー猫が喋った。
ーー猫が喋った。
ーー猫が喋った。
「……いや、無理あるだろ。どんな状況だよ」
思わず声に出た。
通りすがりの主婦がちらりとこちらを見たので、俺は慌てて咳払いをする。
病院に行ったほうがいいのか……?
というか、何科だ?精神科かーー?
もし、神様がいるなら、性格が悪いどころの話ではない。
人の恋路に設定を盛りすぎである。
恋愛漫画でもなかなかない状況だ。
いや、最近の漫画ならあるかもしれないな。
タイトルはたぶん、『好きな人の猫が亡夫だった件』だろう。
俺は駅前のコンビニに入り、冷蔵棚の前に立ったまま、ぼんやりと考える。
『楓には近づかないでくれ』
頭の中で、あの声が何度も繰り返される。
低くて、静かで、けれど痛いほど切実な声ーー。
柊さんの気持ちは、俺にはわからない。
でも、失くした人間の気持ちなら、知っている。
両親が死んだあと、俺は何度も思った。
自分だけが置いていかれたのだと。
両親が死んだ後も、世界は何もなかったみたいに続いてーー大切な人がいなくなっても、世界は終わらない。
秒針が無遠慮に進んでいくだけーーただそれだけ。
その当たり前のことが、俺の目にはひどく残酷に映った。
きっと楓さんも、そうだったのだろう。
生きている人間は無理やりにでも進むしかないのだ。
ーー前へ。
ーー前へ。
誰が決めたのかもわからない方向へ。
俺はコンビニを出て、買ったばかりの炭酸水を一口飲んだ。
青信号になり、人の流れが動き出す。
俺もそれに混じって歩き出した。
ーーその時、スマホが震えた。
画面を見ると、家事代行サービス<アポロン>のアプリから通知が来ていた。
《日向様より評価が届きました》
俺は思わず足を止めた。
アプリを開くと、星五つの評価と、短いコメントが表示された。
《本日もありがとうございました。ご飯、とてもおいしかったです。クロとも少し仲良くなれたみたいでよかったです》
最後の一文を見て、俺は思わず笑ってしまった。
クロ――いや、柊さんが聞いたら、きっと鼻で笑うだろう。
(仲良くなれた?どこがだよ)
俺は返信欄を開いた。
《こちらこそありがとうございました。次回もよろしくお願いいたします》
***
家に帰ると、部屋はいつも通り静かだった。
一人暮らしのワンルーム。
大学の教科書。読みかけの小説。安いローテーブル。部屋に不釣り合いな大きい本棚。
(あの家とは全然違うな)
楓さんの家には、物が多かった。
たぶん、単に散らかっているだけではなくてーーあの家には、きっと、整理できないものが多すぎるのだ。
だからこそ、楓さんは家事代行を頼んだのかもしれない。
俺はベッドに倒れ込み、目を閉じる。
まぶたの裏に、日向さんの顔が浮かぶ。
ーー時折見せる哀しげな顔。
ーー愛おしそうに話すあの声。
ーーしっかりしていそなのに、全然そうじゃなくてだらしないところ。
ーー不意に見せる、無邪気な笑顔。
やっぱり俺は、日向楓という人が一等好きなのだ。




