彼女の夫と黒猫(朔side)
俺は何とか平静を装い、キッチンへ戻った。
背中に、視線が刺さっている。
俺は皿を洗うふりをしながら、そっと足元を見る。
クロはキッチンの入口に座っていた。
ぴんと背筋を伸ばして、尻尾だけをゆっくり揺らしている。
その姿は、猫というより、まるでこの家の主だった。
「……これ、夢か?」
俺がつぶやくように言うと、『現実だよ』とクロが答えた。
俺は、全身に鳥肌が立つのを感じて身震いした。
「……お前の声が聞こえるのは……、俺だけ……なのか?」
『今のところ、そうだね』
「なんで……」
『さあ?それは僕にもわからない』
「……お前……、一体なんなんだよ」
『僕?僕はね、楓の夫だよ』
「……」
『僕の名前は、日向柊。楓の夫だ』
「……は?」
俺は理解できずに、ただ、呆然と立ち尽くしていた。
***
猫が喋っただけではなく、その猫が好きな人のーー亡くなった旦那?
そんなバカな話があり得るのか?
『うん、信じられないよね。わかるよ。僕も、この体で目覚めるまでは、こんなことが現実に起こるなんて思っていなかった。まるで、小説やドラマみたいな話だ』
クロ《柊さん》は尻尾を揺らしながら、じっと俺を見ている。
認めたくはないが……猫が喋っているのだと認めるしかない。
クロ《柊さん》はまるで、俺の頭の中に直接話しかけてきているようだった。
にゃーと鳴くわけでもなく、ただじっと俺の方を見ているだけなのに、頭の中に言葉が直接届いてくるのだ。
「……あの……とりあえず……、今までタメ口きいて……すいませんでした」
『気にしなくていいよ。仕方のないことだ』
「……というか、それってもしかして……転生?とか言うやつなんでしょうか」
『うーん。その辺は僕もよくわからないんだけど、多分、転生じゃなくて憑依……なんだと思う。僕がこの体で目覚めた時には、この猫はすでに成体だったから』
「憑依……ですか」
俺は状況を理解しようと、しばらく考え込んだ。
だが
「なんだかありえないことが起こりすぎていて、正直俺……頭が混乱してます」
『まあ、それが普通の反応だと思うよ』
クロ《柊さん》は、淡々と言った。
その落ち着きが、逆に俺を混乱させる。
「……あの……、日向さんは……知らないんですよね?」
クロ《柊さん》は黙った。
窓の外の光が、黒い毛並みの上を滑る。
彼の金色の瞳が、少しだけ伏せられた。
『うん。楓は僕をただの猫だと思っている。少し賢くて、どこにでもいる、ただの猫だってね』
「……柊さんは……それでいいんですか?」
『いいも何も、仕方ないだろ?僕はもう、抱きしめたい時に、楓を抱きしめられない。楓が目の前で泣いていても、僕は喉を鳴らして、額をすり寄せて、そばにいることしかできないーーただの猫《死人》なんだから』
胸の奥が、ぎゅっと掴まれたように痛んだ。
クロ《柊さん》は、日向さんのいる仕事部屋の方向を見た。
『それでも……いないよりはいいだろう?』
俺は、何も言えなかった。
死者が戻ってくるなんて、もし本当にそんなことがあるとしたなら、残された人はきっと救われるのだと思っていた。それはまるで、夏に降る雪のような、美しく儚い奇跡なのだと。
けれど、実際は奇跡なんかじゃなくて、もっと残酷な何かなのかもしれない。
『だから、久世朔くん』
名前を呼ばれ、俺は少しビクッとする。
『楓にはーー近づかないでくれ』
***
その言葉に、俺は無性に腹が立った。
俺は二十二歳で、ただの大学生で、家事代行のバイトだ。
それでもーー先に死んで、彼女をあれだけ悲しませておいて、近づくなというのは流石に傲慢が過ぎるのではないか?
初めは、彼女の生活の役に立てるのならそれだけで十分だと思っていたが、そっちがその気なら俺も黙っているわけにはいかない、と思った。
「……それは、無理です」
クロ《柊さん》の瞳が鋭くなる。
『何?』
「近づくなって言われて、はいそうですかって帰れるほどーー俺、素直じゃないんで」
『君は楓のことを、何も知らないだろう』
「はい。知りません」
俺は正直に頷いた。
「でも、これから知っていきたいと思っています」
水道から落ちる雫の音だけが、やけに大きく聞こえた。
『……君が悪い人間じゃないことは、わかっているよ。君がこれまでたくさん苦労してきたことも。仕事とはいえ、楓に雑炊を作ってくれたことにも、礼は言う』
「……それは、どうも」
『でも、それとこれとは話が別だ。僕は、楓の幸せを願っている。君みたいな若い男が、軽い気持ちで楓に近づくのを見ていられない。それに、楓は僕のことをーー今でも愛しているんだから』
その言葉は、誇りのようにも、祈りのようにも聞こえた。
「……それは、本当に日向さんの……楓さんのためですか?」
『それは、どういう意味かな?』
彼の言っていることは、きっと嘘ではない。
でも、それが全てではない気がした。
「俺を楓さんに近づけたくないのは、柊さんのため……でも、ありますよね」
クロ《柊さん》の目が、細くなる。
『君は一体、何が言いたいんだ?』
「あなたが日向さんの幸せを願う気持ちは、もちろん本当なんだと思います。でも、それだけじゃないと思うんです。あなたは、怖いんじゃないですか?楓さんが、あなたのいない未来に進んでしまうことが」
言った瞬間、空気が変わった。
(あ、まずい……)そう思った時には遅かった。
たぶん、彼が人間の姿だったら、俺はまともに目を合わせられなかったと思う。
『……君はずいぶん、生意気だな』
クロ《柊さん》は俺を睨みつける。
「生意気ですいません。まぁ、正直、俺は何もわからないですよ。あなたの気持ちが俺にわかるはずがないし、わかりたいとも思わないです。俺はただ、楓さんのことをもっと知りたいだけなんです」
『楓の心に君の入る余地はないよ』
「……それは、あなたではなく、楓さんが決めることです」
俺は負けじと言った。
「俺は、あなたの代わりにもなれない。というか、あなたの代わりになれるなんて思ってませんし、そんなこと、誰にもできるわけがない。でも、楓さんがこの先、誰かと笑ったり、ご飯を食べたり、誰かを好きになったり……それを、あなたが止める権利はないはずです。……俺は、日向柊にはなれないし、あなたが見てきた楓さんを、俺は知らない。でも、これからの楓さんを知っていく権利は、俺にだってあるはずです。だから俺は、あなたの思い出と戦うつもりはありません。楓さんがまだあなたを愛していることくらい、俺にもわかります。わかっていて、それでも好きになったんです」
一年分はしゃべった気がする。
こんな熱量で誰かと話すのはーーいつ以来だろう?
クロ《柊さん》はじっとこちらを見ている。
『……君は馬鹿だな』
「はい、馬鹿で結構です」
こうしてーー俺と、日向楓と、黒猫のクロ――いや、日向柊さんとの、奇妙な三角関係が始まった。




