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猫と、彼女と、時々俺と。  作者: 桔梗


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7/9

彼女の夫と黒猫(朔side)

俺は何とか平静を装い、キッチンへ戻った。

背中に、視線が刺さっている。


俺は皿を洗うふりをしながら、そっと足元を見る。

クロはキッチンの入口に座っていた。

 

ぴんと背筋を伸ばして、尻尾だけをゆっくり揺らしている。

その姿は、猫というより、まるでこの家の主だった。


「……これ、夢か?」


俺がつぶやくように言うと、『現実だよ』とクロが答えた。

俺は、全身に鳥肌が立つのを感じて身震いした。


「……お前の声が聞こえるのは……、俺だけ……なのか?」


『今のところ、そうだね』


「なんで……」


『さあ?それは僕にもわからない』


「……お前……、一体なんなんだよ」


『僕?僕はね、楓の夫だよ』


「……」


『僕の名前は、日向柊。楓の夫だ』


「……は?」


俺は理解できずに、ただ、呆然と立ち尽くしていた。


***


猫が喋っただけではなく、その猫が好きな人のーー亡くなった旦那?

そんなバカな話があり得るのか?


『うん、信じられないよね。わかるよ。僕も、この体で目覚めるまでは、こんなことが現実に起こるなんて思っていなかった。まるで、小説やドラマみたいな話だ』


クロ《柊さん》は尻尾を揺らしながら、じっと俺を見ている。

認めたくはないが……猫が喋っているのだと認めるしかない。


クロ《柊さん》はまるで、俺の頭の中に直接話しかけてきているようだった。

にゃーと鳴くわけでもなく、ただじっと俺の方を見ているだけなのに、頭の中に言葉が直接届いてくるのだ。


「……あの……とりあえず……、今までタメ口きいて……すいませんでした」


『気にしなくていいよ。仕方のないことだ』


「……というか、それってもしかして……転生?とか言うやつなんでしょうか」


『うーん。その辺は僕もよくわからないんだけど、多分、転生じゃなくて憑依……なんだと思う。僕がこの体で目覚めた時には、この猫はすでに成体だったから』


「憑依……ですか」


俺は状況を理解しようと、しばらく考え込んだ。

だが


「なんだかありえないことが起こりすぎていて、正直俺……頭が混乱してます」


『まあ、それが普通の反応だと思うよ』


クロ《柊さん》は、淡々と言った。

その落ち着きが、逆に俺を混乱させる。


「……あの……、日向さんは……知らないんですよね?」


クロ《柊さん》は黙った。

窓の外の光が、黒い毛並みの上を滑る。 

彼の金色の瞳が、少しだけ伏せられた。


『うん。楓は僕をただの猫だと思っている。少し賢くて、どこにでもいる、ただの猫だってね』


「……柊さんは……それでいいんですか?」


『いいも何も、仕方ないだろ?僕はもう、抱きしめたい時に、楓を抱きしめられない。楓が目の前で泣いていても、僕は喉を鳴らして、額をすり寄せて、そばにいることしかできないーーただの猫《死人》なんだから』


胸の奥が、ぎゅっと掴まれたように痛んだ。

クロ《柊さん》は、日向さんのいる仕事部屋の方向を見た。


『それでも……いないよりはいいだろう?』


俺は、何も言えなかった。


死者が戻ってくるなんて、もし本当にそんなことがあるとしたなら、残された人はきっと救われるのだと思っていた。それはまるで、夏に降る雪のような、美しく儚い奇跡なのだと。

けれど、実際は奇跡なんかじゃなくて、もっと残酷な何かなのかもしれない。


『だから、久世朔くん』


名前を呼ばれ、俺は少しビクッとする。


『楓にはーー近づかないでくれ』


***


その言葉に、俺は無性に腹が立った。


俺は二十二歳で、ただの大学生で、家事代行のバイトだ。

それでもーー先に死んで、彼女をあれだけ悲しませておいて、近づくなというのは流石に傲慢が過ぎるのではないか?

初めは、彼女の生活の役に立てるのならそれだけで十分だと思っていたが、そっちがその気なら俺も黙っているわけにはいかない、と思った。


「……それは、無理です」


クロ《柊さん》の瞳が鋭くなる。


『何?』


「近づくなって言われて、はいそうですかって帰れるほどーー俺、素直じゃないんで」


『君は楓のことを、何も知らないだろう』


「はい。知りません」


俺は正直に頷いた。


「でも、これから知っていきたいと思っています」


水道から落ちる雫の音だけが、やけに大きく聞こえた。


『……君が悪い人間じゃないことは、わかっているよ。君がこれまでたくさん苦労してきたことも。仕事とはいえ、楓に雑炊を作ってくれたことにも、礼は言う』


「……それは、どうも」


『でも、それとこれとは話が別だ。僕は、楓の幸せを願っている。君みたいな若い男が、軽い気持ちで楓に近づくのを見ていられない。それに、楓は僕のことをーー今でも愛しているんだから』


その言葉は、誇りのようにも、祈りのようにも聞こえた。


「……それは、本当に日向さんの……楓さんのためですか?」


『それは、どういう意味かな?』


彼の言っていることは、きっと嘘ではない。

でも、それが全てではない気がした。


「俺を楓さんに近づけたくないのは、柊さんのため……でも、ありますよね」


クロ《柊さん》の目が、細くなる。


『君は一体、何が言いたいんだ?』


「あなたが日向さんの幸せを願う気持ちは、もちろん本当なんだと思います。でも、それだけじゃないと思うんです。あなたは、怖いんじゃないですか?楓さんが、あなたのいない未来に進んでしまうことが」


言った瞬間、空気が変わった。

(あ、まずい……)そう思った時には遅かった。

たぶん、彼が人間の姿だったら、俺はまともに目を合わせられなかったと思う。


『……君はずいぶん、生意気だな』


クロ《柊さん》は俺を睨みつける。


「生意気ですいません。まぁ、正直、俺は何もわからないですよ。あなたの気持ちが俺にわかるはずがないし、わかりたいとも思わないです。俺はただ、楓さんのことをもっと知りたいだけなんです」


『楓の心に君の入る余地はないよ』


「……それは、あなたではなく、楓さんが決めることです」


俺は負けじと言った。


「俺は、あなたの代わりにもなれない。というか、あなたの代わりになれるなんて思ってませんし、そんなこと、誰にもできるわけがない。でも、楓さんがこの先、誰かと笑ったり、ご飯を食べたり、誰かを好きになったり……それを、あなたが止める権利はないはずです。……俺は、日向柊にはなれないし、あなたが見てきた楓さんを、俺は知らない。でも、これからの楓さんを知っていく権利は、俺にだってあるはずです。だから俺は、あなたの思い出と戦うつもりはありません。楓さんがまだあなたを愛していることくらい、俺にもわかります。わかっていて、それでも好きになったんです」


一年分はしゃべった気がする。

こんな熱量で誰かと話すのはーーいつ以来だろう?


クロ《柊さん》はじっとこちらを見ている。


『……君は馬鹿だな』


「はい、馬鹿で結構です」


こうしてーー俺と、日向楓と、黒猫のクロ――いや、日向柊さんとの、奇妙な三角関係が始まった。

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