俺と黒猫(朔side)
そして次の瞬間だった。
『顔に似合わず、君も苦労してきたんだな』
「……え?」
俺は思わず顔を上げる。
日向さんと目が合い、日向さんは雑炊の器を両手で包んだまま、「どうしたの?」不思議そうにこちらを見ていた。
「いえ……今、何か言いました?」
「私?何も言ってないけど……」
「……ですよね」
聞き間違いか?
いや……だが、俺はたしかに聞いた。
あれは、紛れもなく、男の声だった。
「ねえ、久世くん。ほんとに大丈夫?どこか、具合でも悪いの?」
俺は慌てて笑った。
たぶん、かなり引きつっていたと思う。
「……いや、すいません、何でもないです」
「本当に?」
「はい。ちょっと、寝不足みたいで」
「まあ、大学生って大変だよねえ」
日向さんは、何かに納得したように頷いた。
俺が下を見ると、足元のクロが、俺をじっと見ていた。
丸く大きな金色の目が、じっと俺を見上げている。
さっきまで日向さんを案じるように見上げていたその目が、今はまっすぐ俺に向けられていた。
まさかーー。
いやいや、ない。
猫が喋るなんてありえない。
いくら文学部でも、現実と幻想の境界くらいは理解している。
ーーだが、その時だった。
『なんだ?君……もしかして、僕の声が聞こえるのか?』
今度は、疑いようもなくはっきりと声がした。
「……っ」
俺は反射的に椅子から立ち上がった。
ーー猫が!!猫が喋った!!!
いや、正確には口は動いていない。
それでも、はっきりと声がした。
頭の中に直接、言葉が落ちてきた。
俺は全身の血が引くのを感じた。
「ちょっと、久世くん!?どうしたの?本当に大丈夫?」
日向さんが驚いて俺を見る。
『君、楓が驚いてるよ。騒ぐんじゃない』
クロは俺をじっと見つめ、まるで宥めるかのように言った。
「久世くん?」
日向さんは、とても心配そうな顔をしていた。
「あ……いえ……本当に、大丈夫です」
「いいから、一旦座って。水持ってくるから」
「いえ、本当に大丈夫なので」
「いいから、いいから。きっと疲れが溜まってるんだよ。ちょっと休憩ってことでさ!」
日向さんは水を持ってきて、俺に差し出すと、再び雑炊を食べ始めた。
***
「ごちそうさまでした!」
「お粗末さまでした」
「ほんとにおいしかった。また作ってほしいくらい」
「ご依頼があれば、また作りますよ。というか、作らせてください」
日向さんは少しだけ笑って言った。
「じゃあ、またお願いしようかな」
同時に、足元から鋭い視線が刺さる。
俺はクロを見ないようにして、器を下げた。
その後、日向さんは「食べたら元気が出たから、仕事に戻るね。久世くんは、無理せず、しばらく休んでなよ」と言って、仕事部屋へと戻っていった。
リビングには、俺とクロだけが残された。
冷蔵庫の低い音。
外を走る車の音。
遠くで鳴く蝉の声。
そして、テーブルの下から俺を見上げる黒猫。
俺はゆっくりとしゃがみ込んだ。
「……お前、さっき……喋った?」
クロは返事をしない。
ただ、尾の先を床に一度だけ打ちつけた。
「……いやいや、やっぱり……俺がおかしくなったのか?」
俺は頭を抱えて、一人呟いた。
『やっぱり聞こえていたのか』
俺は思わず口を押さえた。
「……やっぱりお前か!!一体、何なんだよーーお前」
『君こそ、何なんだ。不思議だな。僕の声は今まで誰にも届いたことがなかったのに』
クロは尻尾を揺らした。
その声色はどこか嬉しそうだった。
『というか、君。少し声を抑えないとーー』とクロが言いかけた時、仕事部屋の方から声が聞こえてきた。
「久世くん?」
俺は反射的に立ち上がる。
「はい!」
「何か話してた?」
日向さんは廊下から顔を出して、俺とクロを交互に見る。
クロは何事もなかったように、日向さんの足元へ移動し、そして彼女の足首に体をすり寄せる。
日向さんは嬉しそうに目を細めた。
「……えっと、クロと……話してました」
俺は何を言ってるんだ。
日向さんはきょとんとしている。
「クロと?」
「……はい。ちょっと、親睦を深めようかと」
日向さんはおかしそうに微笑んだ。
「そっか。どう?深まった?」
俺はクロを見る。
『君、余計なことを言うなよ』
クロの一声に、俺は笑顔を引きつらせた。
「……ま、まあ、少しだけ」
「ほんと?よかったね、クロ。久世くんと仲良しできて」
日向さんが嬉しそうに笑った。




