過去と黒猫(朔side)
翌朝、俺は大学の講義室で、ノートを開いたまま固まっていた。
黒板には、近代文学における喪失表現についての板書が進んでいる。
教授の声も聞こえている。
聞こえてはいるのだがーー内容が頭に入ってこない。
理由ははっきりしていた。
昨日のことーー日向楓のことを考えていたからだ。
「……さ……く……朔!」
隣から小声で呼ばれて、俺は我に返った。
「お前、教授に当てられてるぞ」
「え」
「夏目漱石における喪失の描写について、どう思うか、だって」
友人の司馬光也が、面白がるように肘で俺を突いてくる。
俺は一瞬だけ考えた。
考えた結果、正直に言った。
「……猫が……猫が怖いです」
講義室が、微妙に静かになった。
教授が眼鏡の奥で目を細める。
「……はい?……猫、ですか?」
「はい」
「……漱石ですからね。まあ、『吾輩は猫である』を踏まえれば、完全に無関係とも言い切れませんが……」
言い切れないのか。
教授はそれ以上追及せず、咳払いをひとつして講義へ戻った。
助かったーー文学部では何を言っても、何かしらの深読みをしてくれるのである。
講義が終わると、光也が腹を抱えて笑った。
「お前、何考えてたんだよ。猫が怖いって」
「……いや、別に」
光也の言う通りだ。
俺は一体何を考えていたんだろうか。
***
講義終わりの昼休み。
学食は相変わらず混んでいて、揚げ物の匂いと学生たちの笑い声が溢れている。
俺はカレーの皿を前にして、スプーンを持ったまま固まっていた。
「で、その怖い猫がいる家ってのが、昨日の家事代行の依頼先ってわけか」
「そういうこと」
「依頼人、美人?」
「……まあ」
「まあって……てか、その間はなんだよ」
光也は不思議そうに笑う。
「いや……美人っていうか、変な人」
俺はカレーを一口食べる。
「変な人?なんだそりゃ。それがお前のタイプってこと?」
「違う」
「違うのか?」
「……いや……違わないかもしれない」
光也がにやりと笑う。
しかしながら、俺の恋には問題が多すぎる。
そもそも、依頼人に恋をする家事代行スタッフなんて、職業倫理の観点から言えばかなりアウトに近い。
「……でも、そもそも依頼人を好きになるとか、普通はアウトだし。それに……」
「それに?」
「……相手、未亡人なんだよ」
俺が言うと、光也の表情が少しだけ変わった。
俺は構わず続ける。
「こないだ、両親の墓参りに行った先で、初めて会ったんだ。彼女は、旦那さんの命日だったみたいでさ」
「……それは……難儀だな」
「だろ」
「朔」
「ん?」
「やめとけよ」
光也が唐突に言った。
俺は顔を上げる。
「何を?」
「その人」
いつもおちゃらけている珍しく、光也の声がまっすぐだった。
「……旦那さんの思い出と戦っても勝ち目はないじゃんか。思い出は何にも変えられないものだし。俺は、お前には幸せになって欲しいんだよ、マジで……」
その言葉は、思っていたより深く刺さった。
「……わかってる」
俺はカレーをかき混ぜながら答えた。
わかっている。
俺だって、死者の思い出と戦うつもりはない。
勝てるはずがないのだから。
けれど、あの人の今の生活に、ほんの少しでも役に立てるならーー今はただそれだけでいい。
***
その日の夕方、俺は大学近くのカフェで調べ物をしていた。
”柊ひなた”
日向さんのペンネームだ。
検索トレンドにいくつかヒットした。
――柊ひなた 新刊
――柊ひなた 夫
――柊ひなた 新人賞
――柊ひなた 未亡人
「……有名人じゃん」
俺は思わず呟いた。
彼女は、俺が思っていたよりずっと有名な作家だった。
長崎県出身で、大学在学中にデビュー作、<夜明けの余白>新人賞を受賞しデビュー。
繊細な心理描写と喪失を描く作風で支持を集める――。
その下に、著作一覧が並んでいる。
<夜明けの余白>
<夜に咲く庭>
<春が終わるまで眠らせて>
<ひかりの残骸>
<あなたのいない朝を数える>etc…
長崎出身ということは、やっぱり、墓前の花火は彼女の中で自然なものだったのだろう。
墓地で嫌な顔をして悪かったな……と俺は反省した。
俺はそのまま、電子書籍を立ち読みした。
作中の主人公である女性は、夜明けを嫌っていた。
『夜が終わるのが怖い』
『朝が来るのが怖い』
『昨日が少しずつ遠ざかっていくのが、たまらなく怖い』
そんなことが書かれていた。
続けて、俺はもう一つ検索する。
”日向柊 写真家”
古い記事がいくつか出てきた。
地方の小さな写真展、インタビュー、作品紹介ーーそして、訃報。
これ以上は、見てはいけない気がした。
公開されている情報だからといって、何でも覗いていいわけじゃない。
人の痛みは、ネットの検索欄に入れた瞬間、急に軽くなる。
それが嫌だった。
俺は、スマホの検索欄を閉じ、家事代行サービス<アポロン>のアプリを開く。
夏の夕方特有の、湿った熱が肌にまとわりつく。
遠くで蝉が鳴いていて、空はまだ明るいのに、ビルの影だけが濃くなっていた。
次のシフト表を確認する。
楓さんからの依頼は、まだーー入っていなかった。
「……まあ、そうだよな」
一度片づけたばかりだ。
すぐに依頼が来るとは限らない。
そう思った矢先、通知が鳴ったーー店長からだった。
《久世くん、日向様から継続依頼入りました。来週同じ曜日、同じ時間で行ける?》
心臓が、わかりやすく跳ねた。
《行けます。お願いします》
即返信してしまった。
すぐに既読がつき、《助かる!》と返ってきた。
俺はスマホをしまい、茜色に染まる空を見上げてため息をついた。
***
翌週の水曜日。
俺はまた、日向楓の家の前に立っていた。
インターホンを押す前に、深呼吸した。
(仕事だ。これは仕事だ)
そう自分に言い聞かせる。
インターホンを押すと、少しして、扉が開いた。
「久世くん、いらっしゃい」
「こんにちは。家事代行サービス<アポロン>です」
「おお、ちゃんとしてる」
「仕事なので」
「今日もよろしくね」
「よろしくお願いします」
「クロー、久世くん来たよー」
日向さんの呼びかけに応じるようにして、家の奥から黒い影が現れた。
ーークロだ。
クロは廊下の途中で立ち止まり、俺を見た。
そして、前と同じように、低く唸った。
「……挨拶どうも」
俺が言うと、クロはさらに目を細めた。
「……挨拶どうも」
俺が言うと、クロはさらに目を細める。
「クロは相変わらず久世くんにはツンデレさんだね」
「デレ要素ありました?」
「今後に期待かな」
「だいぶ長期戦になりそうですね」
クロは不満そうに尻尾を揺らした。
まるで、『浮かれるな』とでも、言われているようだった。
俺は靴を脱ぎ、家に上がる。
前回片づけたリビングは、まだそれなりに保たれていた。
それなりにーーつまり床は見えている。
ただし、テーブルの上にはすでに本と原稿が増殖し始めていた。
「……一週間でここまで戻ります?」
「現実って厳しいよねー」
日向さんはしみじみと言った。
俺は笑いそうになりながら、作業用のバッグを置く。
「じゃあ、始めます」
「お願いします」
日向さんは仕事部屋へ向かいかけて、ふと足を止めた。
「あ、久世くん」
「はい?」
「この前のことなんだけど」
彼女は少しだけ言いづらそうに笑った。
「私、自分の話ばっかりしてたよね。ごめんね」
予想していなかった言葉だった。
「別に、そんなことないですよ」
俺がそういうと、日向さんは「ありがと」と言って、仕事部屋に消えていった。
***
一時間ほど経つと、楓さんは「なんか、今日やる気出ないなー」と言いながら仕事部屋から出てきた。
今日は冷蔵庫の中も掃除したが、彼女が料理をしている形跡はほとんどなかった。
卵が数個、豆腐が一丁、賞味期限ぎりぎりの牛乳。
あとはゼリー飲料と、コーヒーと、謎に大量のチョコレート。
ちゃんと食べないから、やる気も出ないのでは。
思っただけのつもりだったが、口から出ていた。
「日向さん、ちゃんと食べてます?」
思わず聞いてしまった。
リビングで資料を読んでいた日向さんが、顔を上げる。
「食べてるよ?」
「昨日の夜と、今日の朝は何食べました?」
「昨日の夜は……ゼリー?今日の朝は、コーヒーだけかな」
「それは食事じゃないですね」
「栄養はあるんだよ?」
「栄養不足ですって」
「久世くん、お母さんみたい」
「誰がお母さんですか」
日向さんは笑って、また資料に目を落とした。
この人はどうも、自分を少し雑に扱う癖があるみたいだ。
自分の体を、物語を書くための道具みたいに使っているようにすら思う。
それが作家というものなのかもしれないけれど、見ていて気分がいいものではない。
冷蔵庫にかろうじてあった、卵と豆腐と、賞味期限ぎりぎりの牛乳を見て、俺は日向さんに言う。
「あの……簡単に何か、作ってもいいですか?」
「え、家事代行ってご飯も作ってくれるの?」
「契約範囲内ですよ。食材があれば」
「じゃあ……お願いしちゃおうかな」
その瞬間、クロがキッチンの入口に座った。
金色の目で俺を見る。
まるで、毒を盛るなよ、とでも言いたげに。
俺はフライパンを出し、卵を割った。
簡単な卵雑炊。
豆腐と少しの冷凍ネギを入れて、胃に負担が少ないようにする。
「いい匂い」
日向さんが小さく言った。
その声が、思ったより近くで聞こえて振り返ると、いつの間にかキッチンの入口に立っていた。
「すぐできますから、座って待っててください」
「はーい、お母さん」
日向さんは、少しだけ目を細めた。
「柊もね、よくこうしてご飯作ってくれたんだー」
手が止まりかけた。
その名前が出るたび、部屋の温度が変わる気がする。
「写真家なのに、料理もできたんですか」
「うん。彼は私よりずっと生活能力があったよ」
「それは……比較対象が」
「ひどいなあ」
日向さんはどこか寂しそうに微笑んだ。
「締切前になると、私が何も食べなくなるからさ……よく怒られたんだよね」
「いい旦那さんですね」
「うん。いい旦那さん」
クロが日向さんを見上げた。
静かな目だった。
「……久世くん?」
「あ、すみません。器、出しますね」
俺は慌てて視線を戻した。
***
「おいしいーー!!」
日向さんは雑炊を一口食べて、そう言った。
その声があまりにも素直だったので、俺は少し照れた。
「よかったです」
「久世くん、料理上手いね」
「自炊歴が長いので」
「ご家族は?」
悪意も詮索もない、自然な流れだった。
俺は、一瞬だけ言葉に詰まった。
日向さんはそれに気づいたらしく、すぐに表情を変えた。
「あ、ごめん。言いたくなければいいんだ」
「いえ」
俺は首を横に振る。
「両親は、もういません」
日向さんの手が止まった。
「……そっか」
「この前、両親の墓参りだったんです」
「そうだったんだね」
沈黙が落ちた。
「……いつ……お亡くなりに?」
「俺が高校生の時です。事故で」
「……そっか」
再び、沈黙が落ちた。
けれど、嫌な沈黙ではなかった。
この人は、余計な言葉を言わない。
それはきっと、彼女自身が、これまで聞きたくない言葉を言われてきたからかもしれないと思った。
「両親が亡くなった時……、親戚の家をたらい回しにされてたんですけど、よくこう言われたんです。『可哀想に』『きっといつかいいことがあるからね』『辛い経験にも、きっと意味はある。前を向いて生きてくんだ』って。俺の何がわかるんだよ、ってずっと思ってました」
言ってから、少しだけ後悔した。
仕事中に何を話しているんだ、俺は。
けれど日向さんは、困った顔も、同情した顔もしなかった。
ただ、少しだけ視線を落として、静かに言った。
「……『辛いことにも意味がある』なんて言う権利はさ、本人にしかないと思うよ。私はね」
日向さんが、ぽつりと言った。
「だからさ、君のことを何も知らない私からは何も言えないけど……、君はーーちゃんと、生きてきたんだね」
その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなった。
「……はい」
その時、足元でクロが甘えたような声で小さく鳴いた。
見下ろすと、クロは俺ではなく、日向さんをじっと見ていた。
まるで、何かを案じるように。
あるいは、胸を痛めているかのように。
猫がそんな顔をするはずがない。
そう思うのに、クロの金色の目は、どうしてもただの猫のものには見えなかった。




