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猫と、彼女と、時々俺と。  作者: 桔梗


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4/9

彼と黒猫(楓side)

さっきまで足の踏み場もなかったリビングには、久しぶりにちゃんと床が見えている。

それは少しだけ気持ちよくて、少しだけ落ち着かなかった。


「久世くん、すごいねえ。ね、クロ」


私がそう言うと、クロは玄関の方をじっと見ていた。

久世くんが出ていった扉のほうを、まだ睨んでいる。


「久世くんはもう帰ったよ?」


クロは返事をしない。

ただ、尻尾の先だけをゆっくり揺らした。


「……そんなに嫌だった?」


私がしゃがみ込むと、クロはようやくこちらを振り返った。


クロは綺麗な金色の瞳を、めいいっぱい開いている。

初めてこの子を見た時も、こんな目をしていた。


猫の目なのに、妙に人間くさい。

こちらの言葉を聞いて、理解して、その上で何か言いたげな目をしているのだ。


「私は、久世くん、いい子そうだけどなー」


そう言った瞬間、クロが低く鳴いた。


にゃあ、ではなかった。

もっと喉の奥で押し殺したような、不細工な声。


その声に、私は思わず笑ってしまう。


「なぁに?やきもち?」


私はクロの頭を撫でた。


「そんなにヤキモチ妬かなくたって、大丈夫だよ。久世くんはただのバイトさんなんだから」


言ってから、自分で少しおかしくなった。

誰に向かって言っているのだろう。


クロに?

柊に?

それとも、自分に?


ーー夫が死んで三年。

この家に、他人が上がることはほとんどなかった。


編集者との打ち合わせは、近所の喫茶店かオンライン打ち合わせで済ませるようにしていたし、友人は、最初の一年こそ何度も様子を見に来てくれたが、そのうち遠慮するようになった。


私はクロをそっと抱き上げた。

さっき久世くんに見せた凶暴さが嘘のように、クロは私の腕の中でおとなしくしている。


最初にこの子が来た日のことを、私は今でもよく覚えている。

あれは、二年前の雨の日ーー柊の一周忌のことだった。


締切前で、三日ほどまともに寝ていなかった朝。

インターホンも鳴っていないのに、玄関の向こうに気配がして、扉を開けると、濡れた黒猫が一匹、玄関の前に座っていた。


黒猫は、鳴きもせず、ただ私を見上げていた。

まるで、ようやく帰ってきたよ、とでも言いたげな目で。


***


私はソファに座り、久しぶりに片づいたリビングを眺めた。

窓から入る光が、部屋の奥まで届いている。

こんなに明るい家だっただろうか。


「……そういえば、久世くんは誰のお墓参りに来てたんだろう」


久世くんは、遠慮しているというより、誰かの痛みに不用意に触れないよう、ちゃんと距離を測っている人に見えた。今更ながら、自分の話ばかりしてしまったことを反省した。


私はリビングにある写真へと視線を向ける。


写真家だった彼は、撮られることが苦手だった。

私の写真ばかり撮って、自分はいつもレンズの外側にいたがった。

だから家に残っている彼の写真は、私が無理やり撮ったものばかりだ。


カメラを向けられて、照れくさそうに目を細めている柊。

柊の、この照れた時の顔がたまらなく好きだった。


「今日はね、変な子が来たよ」


私は写真に向かって言った。

死んだ人に話しかける癖は、いつから始まったんだろう。


柊が死んでから、最初の一年は、ひどかった。


朝起きるたびに、柊のいない部屋を見て絶望した。

彼の面影をひたすら探し続けていた。

雨の匂いにも、古いレンズにも、一緒に選んだコーヒーの香りにもーー。

こうして、笑えるようになったのは、きっとクロのおかげだ。


柊がいなくなってから、私はずっと、出口のない物語の中にいるようだった。

ページだけが進んで、私だけが同じ場面に置き去りにされている。

いっそ、思い出だけで生きていけたらいいのにーーとさえ思う。


「原稿、書かなきゃ」


そう言って立ち上がり、仕事部屋へ向かおうとした時、クロがするりと足元に寄ってきた。


「なに?クロも、一緒に来る?」


クロは当然のように先に廊下へ向かう。

私は思わず笑った。


「はいはい」


***


机に向かい、ノートパソコンを開いた。

画面には、書きかけの小説が表示される。


編集担当から、メールが1件入っていた。


《柊先生。進捗はいかがでしょうか?》


私のペンネームは、”柊ひなた”。

柊の名前と、私たちの苗字をひらがなにしただけの安易なもの。

それでも、私はこの名前があれば、柊といつまでも一緒にいられる気がした。


「何?書けって?」


クロは小さく鳴いた。


<にゃー>


「はいはい、書きますよ」


私は苦笑して、画面に向き直る。

その時、ふいに思いついた。


亡くなった人が、別の姿で戻ってくる話はどうだろう?


「……転生ものなんて、ありきたりかな?」


私の独り言に、クロがこちらを見た。

金色の目が、なぜか少しだけ寂しそうに見えた。


亡くなった男が、ある日、猫になって帰ってくる話……なんてね。


そんな話、書けるわけがない。

私は苦笑して、別のファイルを開いた。

現実は、物語ほど優しくない。


死んだ人は帰ってこない。

どれだけ願っても、どれだけ待ってもーー。


カーソルが、白いページの上で点滅している。

前へ進め、と急かすみたいに。

私はしばらくその光を見つめてから、ゆっくりと文字を打ち始めた。


***


私は久しぶりに、柊の夢を見た。


夢の中で、彼はカメラを構えていた。

どこか知らない海辺だった。

波の音がしていた。

柊はファインダー越しに私を見て、いつものように穏やかに笑っていた。


『楓』


声が聞こえた気がした。

とても、懐かしい声だった。


『…………』


柊は何か言っているのだが、何を言っているのかわからない。


「柊……何?なんて言ったの?」


目が覚めると、部屋は薄暗かった。

カーテンの隙間から、夜明け前の青い光が差し込んでいる。

胸が苦しいほど静かだった。


枕元には、クロがいた。


クロは丸くなって眠っている。

その前足が、私の手の甲にそっと触れていた。

それはまるで、手を握ってくれているみたいに温かかった。


私はクロをギュッと抱き寄せる。

生きているものの優しい体温に安心する。


「クロ……クロは、ずっとそばにいてね?」


名前を呼ぶと、クロは私の胸元に顔を寄せた。


ーー今でもよく思い出す。


柊の体は、最後の頃、いつも少し冷たかった。

病室の白いシーツの上で、彼の手を握るたび、私は指先に力を入れた。

彼の冷えた体をあたためたかった。

でも、どれだけ握っても、こぼれていく彼の体温は止められなかった。


悲しい。

寂しい。

そばにいたい。

そばにいたい。

そばにいたい。

お願いだから、逝かないでーーその願いだけは、最後まで届かなかった。


私はもう一度、ゆっくりと目を閉じた。

久しぶりに見た夫の夢を、忘れてしまわないように。

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