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猫と、彼女と、時々俺と。  作者: 桔梗


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3/9

汚部屋と黒猫(朔side)

俺はリュックからエプロンと手袋を取り出した。


「……じゃあ、まず床に落ちてる紙類を分けますね。捨てていいものと駄目なもの、判断できますか?」


「……たぶん?」


「たぶん?は怖いです……」


「だってー。作家にとって、紙は全部大事なんだよ」


「じゃあ床に置かないでくださいよ」


「正論が痛い!」


彼女は胸を押さえてよろめくふりをした。

お茶目な人だな、と思いながら、「はいはい」と言って、俺は足元の原稿を拾い上げた。


そこには赤ペンで大きく書き込みが入っていた。

俺は一瞬、手を止める。


「ああ、それ、昔の原稿!読まないでね、恥ずかしいから……」


「……あ、すみません」


俺は慌てて視線を外す。


「この赤字、夫が入れてくれたの」


「……旦那さん、編集者だったんですか?」


「ううん。写真家。でも、私の小説を初めて読んでくれた人で、初めてのファンで……、一番厳しい読者だったんだー」


彼女はそう言って、愛おしむように、原稿を指でなぞった。


「私がね、うまく書けてないなぁーって、自分でも思ってたところに、すぐ気づくんだよね。もうほんと、嫌になるくらい……。文章ってさ、書いた本人より読む人の方が嘘に気づくことあるでしょ?」


「……ありますね」


彼女はぎこちなく笑った。


ーーその時だった。

クロが、原稿に近づいて、黒い鼻先をそっと紙に寄せ、その匂いを嗅いだのだ。

そして、まるでそこに何か大切なものがあるみたいに、原稿の上に前足を置いた。


「……クロ?」


クロは動かない。

じっと原稿を見下ろしている。

その姿はどう見ても、彼女を励ましているかのようだった。


「この子、時々こういうことするんだよね」


彼女は困ったように笑った。


「へえ……」


俺は曖昧に返し、床の資料を種類ごとに分け始めた。


原稿。

資料本。

請求書。

空の封筒。

コンビニのレシート。

ーーなぜか靴下。


「日向さん」


「はい」


「靴下が本棚の下から出てきました」


「それは……不思議な配置だね」


「配置したのは誰でしょうね」


「……靴下、救出ありがとう!」


そうして、ふざけた会話をしながら、少しずつ床が見えてくる。


掃除をしていると、その人の生活が見えてくる。

何を後回しにしているのか、何を大事にしているのか。


そして、この部屋には、あちこちに写真があった。


海。

坂道。

夏祭り。

古びた喫茶店。


その写真の中の一枚に、俺は目を奪われた。


その写真の中の彼女は、今より少し幼く見えた。

隣にいる男が、墓前の写真立てに写っていた人ーー彼女の夫だとすぐにわかった。


感じのいい男だった。

整った顔立ちに、穏やかな目元。

清潔で、育ちが良さそうで、きっと学生時代から自然に人の中心にいたのだろうと思わせる雰囲気がある。


その写真立ての前に、クロが座った。

まるで、そこが自分の場所だと言わんばかりに。


写真の前に、小さな花瓶がある。

白いトルコキキョウ。

墓前に供えられていた花と同じだった。


「……その人」


つい口に出してしまった。

彼女がこちらを見る。


「ああ。この人が、私の夫」


あっさりとした声だった。

けれど、その短い二文字の後に、部屋の空気が少しだけ変わった気がした。


「景色を撮るのが好きな人でね、彼、業界ではそれなりに有名だったんだよ」


彼女は散らかった机の上から、文庫本の山をどかしながら言った。


「……そうなんですね」


「そっ!人を撮るのは苦手だって言ってたくせに、私の写真だけはやたら撮ってさ。ひどいよねー。被写体の許可取らないんだよ」


そう言って、少し笑う。

けれどその笑い方は、墓地で見たものと同じだった。

楽しそうなのに、どこか泣きそうな顔。


「この写真はね、旅行先で撮ったんだ。彼、写真家だから撮られるのには慣れてないみたいでね、本当ーー笑顔とかぎこちなくて笑っちゃった」


「いい写真ですね」


「でしょ、お気に入りなの。彼がまだ元気だった頃の……唯一の写真だから」


彼女は嬉しそうに笑った。

その笑顔は、今日見た中で一番自然だった。


墓地で一目惚れした相手が、数ヶ月後に仕事先の依頼人として現れたのだ。

運命なんて言葉を信じるほど俺は子どもではないけれど、偶然にしては少し出来すぎている。


胸の奥が、チクリと痛んだ。

俺が一目惚れした人は、今もまだ、亡くなった旦那さんのことを深く愛している。

恋愛において死者ほど強いライバルはいない。

生きている人間が絶対に勝てない場所にいるのだ。


死者との思い出と戦ったって、勝ち目なんかあるわけない。

それは、両親を早くに亡くした俺が一番よくわかっている。


それでも俺は、写真を見つめる彼女から目を離せなかった。


***


「久世くん?」


「……すみません。続けますね」


俺は慌てて視線を戻した。

その瞬間、足元にいたクロが、低く唸った。

まるで俺の心を読んだみたいにーー。


俺は思わずクロを見下ろす。

クロは金色の瞳を大きく見開いて、こちらを見ていた。

その目には、やはり言葉があった。


――見てるぞ。


そんな声が、聞こえた気がした。


「久世くん、クロと仲良くなれそう?」


「……これは……無理ですね」


「即答!」


彼女は腹を抱えて笑う。


「だって、向こうにその気が一切なさそうですもん」


俺が言うと、彼女はまた笑った。

その笑顔を見て、クロが俺から視線を逸らし、彼女の足元へ歩いていく。

そして、彼女の足首に体をすり寄せた。


ーー3時間後。


「日向さん、終わったので、確認お願いします」


仕事部屋の扉を軽くノックすると、中から「はーい」と声がした。


少しして扉が開く。


彼女は眼鏡をかけていた。

髪はゆるく結ばれていて、さっきより少しだけ疲れた顔をしている。

けれど、俺を見るとすぐに笑った。


「うわ、床がある!」


「ありました」


「すごい。魔法?」


「労働です」


「現実的だなあ」


彼女は感心したようにリビングを見回した。


「ありがとう、久世くん。すごく、助かった」


「いえ、仕事なので」


そう言いながら、俺は少し嬉しかった。


単純だーー。

好きな人に礼を言われたくらいで、こんなに浮かれるなんて。

二十二歳にもなって、自分が思ったより子どもで嫌になる。


「クロも綺麗になって嬉しい?」


彼女がしゃがみ込んで頭を撫でる。

クロは目を細める。

3時間俺を監視していたからか、警戒心は少し薄れたように見える。


「今日はありがとうございました」


作業報告を済ませ、玄関で靴を履く。


「こちらこそ。またお願いしてもいい?」


「もちろんです。ご依頼いただければ」


仕事用の返事をする。


本当は、また会いたいと思っていた。

だが、それを言葉にするには、俺たちはまだ何も知らなすぎる。

俺にはこれ以上、彼女の人生に踏み込む勇気がなかった。


「じゃあ、また!」


彼女が笑顔で手を振った。


その足元に、クロが座っている。

俺を見上げる金色の目。


ーーこの女に近づくな。

ーーこの家に二度と来るな。

ーー俺たちの間に割り込むな。


まるで、そう言われているようだった。

どうもこの猫はただの猫には見えないのは、なぜなのだろうか。

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